新茶の季節<散文編>
佐々宝砂

静岡に生まれて静岡に育ったから、新茶の香りが漂ってこないと初夏がきたような気がしない。ちなみに新茶の香りは茶畑の香りではない。茶畑そのものは、あまり新茶らしい香りを持たない。まあ少しは香る。私の実家では茶の木を垣根にしていて、新茶の季節になると食卓に茶葉の天ぷらが出た。今住んでいる家にも茶の木が一本ある。この季節には新芽を摘んで、天ぷらにしたり、茶の佃煮にしたりする。

高校生のころまでは、祖父母と両親とお茶摘みをした。祖母がよく「摘まなきゃ茶にならない」と言った、なるほどそりゃそうだ。摘まないお茶は香らない。摘んだとたん、お茶は魔法のように新芽の香りを放ち出す。みる芽(未熟な若芽)を手摘みにしたのを大きな網袋にどっさりいれて、軽トラックの荷台に積み、祖父母は自転車で家に帰り、父の運転で、母は助手席、私は網袋の影に隠れて荷台に乗り、茶工場まで走った。摘み立て新茶の網袋に埋もれて揺られることほどすばらしい経験は、この世にあまり多くない。

私が新茶の香りというのは、お茶の新芽の香りだけではなくて、あちこちにたくさんある小さな茶工場から漂う茶の香りも含まれる。茶工場の香りならば、なんとなく説明ができる。お茶の缶や袋を開封した瞬間に、お茶っ葉そのものまで吸いこみそうな勢いで鼻から息を吸ってみるといい。息詰まるほど茶葉を嗅いでみるといい。ともかく、そんな香りだ。

茶工場と茶業農家にGWはない。特に茶工場は、深夜も休まず二十四時間操業だ。そんな茶工場の排気ダクトは、粉茶混じりのみどりの排気を吐き出す。工場の床はいちめんこぼれたお茶でまみどり、箒で掃くと、ちりとりに何杯も何杯もゴミ茶が集まる。下手なお茶より旨いお茶が出そうなゴミ茶だが、ホコリや汗やフケや紙くずが混じっているので、もちろん売り物にならない。地元の人間も飲まない。産業廃棄物として処理するほかないそのゴミ茶は、しかし本当にすばらしい香りを放つ。

茶工場では、さまざまなお茶が製造される。ゴミ茶ほどひどいものではないとはいえ、あまり売り物にならないお茶もなかにはある。うちの地方で俗に「フワ」と呼ぶものすごく安くて軽いお茶がある。お茶を選別するさいに、いちばん軽い部分として分別されるものだ。フワは一度煎れたらおしまいで、二番煎じができない。しかし、緑濃いフワの一番煎じは、緑茶に馴染みのない人には高級茶のように感じられてもおかしくない。そのせいか、へんてこな名前をつけて土産物屋でもフワを売っている。変な名前のお茶を静岡の土産物屋で見つけたら「このお茶、二番煎じしてもおいしいですか」と訊ねるといい。土産物屋の店員が変な顔をしたら、そのお茶は買わない方がよろしい。あんな安物を綺麗に包装して土産に売るのは、なんとなく、ずるい。まずいお茶ではないけれど、ほんとに安い一山いくらのシロモノなのだ。ちかごろ茶工場でバイトしたので、私の家には、いまスーパーのでっかい袋いっぱいのフワがある。「持ってけやー」というのでもらってきた。新茶の季節には毎年フワを飲む。まずくはないがたいしたことない味のフワを飲む。フワでも新茶は新茶に違いない。

あおくさい茶畑。摘んだばかりの新芽。茶葉の天ぷら。茶葉の佃煮。伸び放題に近くなった垣根の茶。排気ダクトから吹き出す緑の粉。床にこぼれたゴミ茶。荒茶。二束三文のフワ。どこか(主に東京)の誰かが飲むであろう高級なみる芽新茶。そんなものがみんなみんな集まって、混ざり合って、あたりにみちみちる。この香りと茶と茶畑と茶工場を愛して、七十過ぎても茶工場で働いた私の祖父は、新茶の季節に亡くなった。それからというもの、私の新茶の季節にはひとすじの新たな香りが加わった。これからさきにも、私の新茶の季節には、またいろいろな香りが付け足されてゆくのだろう。


散文(批評随筆小説等) 新茶の季節<散文編> Copyright 佐々宝砂 2004-05-04 21:05:13
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