最果の春
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 最果で
 今年最後のさくらが咲いている


あの日、工場の辺りにはやっぱり同じような工場がたくさんあってね、その中ひとつの敷地に桜の大木が並んである。
バスも届かないくらい、おおきな桜だ。
樹によっては、もう八分咲きだった。

一直線にならんだ桜がかいなを道にかざしている下、自転車漕ぎながら見上げると、空は花より明るいデッサンをしている。
昨日は柔らかい、ミルクの油つぶみたいな青空で思わず手放し運転した。
今日は濡れたタオルのようなすいこむ雲から、堪えきれなかった雨もすこし降ってきて、ちょっとたばこを吸ってみた。
菜の花の蜜が溶け出している。
密な夢を己の黄色に糾して、諦めたように。
あの日青梅は、晴れも雨もどちらも春の日。
気持ちのいい空だった。

受話器の向こうでは呼び出し音を聞きながらそれでも、尾骨部に褥創を抱える身を起こせない老人がいて、カーテンも開けきらず、ただ布団の上で寝崩れた衣も直せず聞いていて、だから老人はまだ春を知らないのだと思う。
そば屋の斜交いでは街頭ポスターに、選挙に臨む男と女の顔写真がアップを競い合い、ポケットのラジオはムスリルの心を単色に染める意図がきれいに隠されたニュースが単調で、天気予報だけが桜前線の北上を滑らかに、朗らかに伝えている。
窓を開けたら隣の家の窓が目の前に、レースだけで隠そうとしても覗かれる為の暖房が切られた室内が現れ、しかしひとつになれない恋人達の幸せな、顔の無い四肢を見る。
何度も息を吹きかけたぼうっとした露でその窓をぬぐうから、千切れた葉光がすべてに降り注ぎ、ぼくは自転車に乗って那珂川の土手まで漕いで駆け下り、乾きに任せて川にくちづける。
それから要らなくなった傘を川面に浮かべて、海まで何処にもぶつからず、届きたいと願うんだ。
穏やかな月に曳かれて満ち、橡で染めた鉛が沈み、祖母が待つ満州に続く、夕日と波の重なりに。

耳を澄ませば蜜蜂がまた円を描き、八の字に踊っているよ。
ホームレスが鳩の休む枝を見上げて、公園は彼等の元に帰ってゆくよ。
きみが去った川底に落ちる雨。
きみが住む街の晴天に降る流星。
花がはなびらとなって留まる束の間、
きみのすべてが記憶された、
あてどないいのちが皆でえいえんを歌う。
かなしい程のさよならの始まり。
子どもたちが水に映した空を割って、
最果で、
最後のさくらが咲いている。

今日は二月並みだとか。
そしてかなしい程のさよなら。
吐く息が白くて、イーゼルの影も途切れとぎれで。
誰も見てくれる人がいない花だから、描くことにするよ。
完成したら、晴れの日に送ろう。



自由詩 最果の春 Copyright soft_machine 2007-04-18 16:09:20
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