連作「歌う川」より その2
岡部淳太郎



遠くで呼んでいる

また
もうひとつの朝
祈る人は いつものように目醒める
いつものような 川の歌
いつものような 川沿いの歩行
いつものように
滞りなく
祈る人の一日は始まる

また
もうひとつの夜
祈る人の いつもと同じ眠り
石を枕にしての眠り
夢の中での眠り

そのようにして
いつも同じように
祈る人の一日があり
川の歌があり
そして
また
もうひとつの朝
祈る人は またもいつものように目醒める
それは
本当の目醒めではないが
とにかく いつものように
祈る人は目醒めた
その日は
川の上に薄く朝霧がかかっていた
祈る人は
目醒めのぼんやりの中で
声を聴いた
川の歌とは明らかに違っていながら
どこか川の歌に似た響きを持つ
声だった
何を云っているのか
はっきりとは聴き取れなかったが
確かに
声が聴こえる
祈る人の耳にその声は
自分を呼んでいるように聴こえた
そう
呼んでいる
どこか遠くで
それは宇宙から真っすぐに降りて来る
隕石の声 だったが
祈る人は
そんなことを知る由もなく
ただ漠然と
その声に心をひかれた

また
もうひとつの夜
祈る人が いつものように眠ろうとすると
またしても
声が聴こえた
やっぱり呼んでいる
どこか遠くで自分を呼んでいる
祈る人は闇の中で立ち上がり
川面を見つめた
あの声のする方角へ
行かなければならぬ
この川沿いに歩きつづければ
辿りつけるに違いない
祈る人は確信した

そのようにして
祈る人の川沿いの旅は
新たな裏づけを得られ
確かな野望が
祈る人の身内にわき起こった
また
もうひとつの一日
いつもと同じ 祈りと
歌と
川の流れと
川沿いの歩行があり
祈る人はまたも
川面に向かって立ちつくす
遠くで自分を呼んでいる
確かな声
ほら
また聴こえた
やっぱり呼んでいるのだ
わかったよ
俺は君のところへ近づいているよ
祈る人はひとり
静かに微笑んだ

また
いつもと同じ 川
その見つめる川面に
魚が跳ねる
祈る人は自由を
叫んだ



川を流れるもの

叫びは
どこか彼方へと吸いこまれて
見えなくなってしまい
囁きは
そこら中の空気に溶けて
無数の声になってしまう

そんな
川べりの日々である

そんな
日々の中にあってさえ
祈る人は旅をつづける
その足跡のすぐそばを流れている川との永遠の
(ような)
二人三脚
旅は終らない
旅はつづく

そんな
川べりの日々である

叫びを
かみ殺した瞬間があったにせよ
囁きを
無意識のうちにもらした瞬間があったにせよ
祈る人の確信は変らない
永劫不変の
宇宙である
そして川の中では今日も
生きた魚が流れてゆく

そんな
川べりの日々である

川は
大量の生きた魚を
大量の眠ったままの石を
押し流して流れる
涸れることのない
生の水路
だが今日
祈る人がたたずんで見つめる川面に
死んだ人間が流れてゆく

そんな
川べりの一日である

記憶の重みに押しつぶされたのか
記憶を探しあぐねて狂ったのか
かつてひとりの人
であったその物体は
いまは明らかなひとつの死体となって
水に汚され
水に洗われ
流れている

そんな
川べりの一日である

祈る人は
その死体の身元を思って
悲しんだりなどしなかった
それどころか
川の流れに乗って
上流から下流へ
そして遂には海へと
吐き出されるだろうその死体に
うらやみさえ感じたのだった
俺も
流れに抱かれたい
血の色の
空の下で

そんな
川べりの一日である

そんな
あらゆる日々の中の特定された一日
川を
死んだ人間が流れてゆく
川を
生きた魚が流れてゆく
やがて
死体は祈る人を追い越して
その視界から消えた
彼はふところへと
帰っていったのだ
俺も
後を追わなければならぬ
祈る人のそんな思いは
無意識のうちにもれる囁きとなって
そこら中の空気に溶けて
無数の声となった
そんな
日々の中の特定の一日
今日も
川は流れる



橋の暗黒

今日も
川は流れる
川辺の石を枕にして眠った一夜から
目醒めると
世界は相変らず狂乱の巷 である
そして川が
世界の動向に無関心なのも
変らない
目醒めはいつも不快である
朝が来る度 祈る人は
暗黒を欲した

今日も
祈る人は歩く
世界の変らぬ狂乱を背に
昨日と変らぬ足どりで歩いてゆくと
橋がある
太陽はもう中天
人類は橋を渡る
次から次へと
此岸から彼岸へと
橋を渡る人が 来ては去ってゆく
祈る人は橋の下に
休息所を求めた
周囲の原色の風景に比べれば
そこはまだしも暗黒に近い
ところが橋の下には先客がいて
彼を待っていた

それは祈る人以上に薄汚れた風体の
男だった
中年なのか 老年なのか
齢の定かではない男の
瞳を覗きこむと
二千光年の彼方へと
弾き飛ばされたような心地がした
男は
紀元前と紀元後の境目から
やってきたのかも
しれなかった

祈る人は
男とともに橋の下に坐り
借り物の暗黒に安らいだ
やがてふたりは
どちらからともなく口を開いた
男は祈る人に
自らの秘密を語った
――俺には見える。こうして橋の真下に坐ってい
  ても、橋の上を通る人々の姿が
男は実際に橋を透視出来るかのように
そこを通る人々の姿を
克明に語った
――橋の下は、俺の聖地だよ。この暗黒が好きな
  んだ。だが、時々ふっと思うことがある。こ
  んな影としか呼べない借り物の暗闇ではなく、
  本物の暗闇の中に入りこみたいとね。
男は橋を渡る女たちの
スカートの中だけでなくその奥の
子宮の暗黒までも
見透かすかのように 語った
――実際に俺は、橋の下で生まれ、橋の下で育っ
  てきたんだ。俺は人間だが、人間じゃない。
  俺の中には魔物の血が混じっているんだ。
突然 男は
祈る人に向き直り
挑発するように微笑んだ
――教えてやろうか?
祈る人は何のことだかわからず
曖昧にうなずいた
眼の前で流れる川の音を聴きながら
――待っているんだ。
待っている?
いったい何を待っているというのか
祈る人の頭は混乱した
その時 彼の中からすべての歌の旋律も
祈りの言葉も
一瞬だけではあるが 消え失せた
――云っておくが、女だとか、友達だとか、そん
  な当たり前のものを待っているんじゃないぞ。
  かと云って、ここにぼんやり坐って、ひたす
  ら死ぬのを待ちつづけているのでもないぞ。
人を待っているのでも
死を待っているのでもなければ
このみすぼらしい乞食のような男は
何を待っているというのか
こんなにも長い間
橋の下の川原に坐りつづけて
――お前さんは、
男はつづけた
――お前さんは、どうやら俺が待っていたものの、
  そのうちのひとつではあるようだ。お前さん
  は人じゃないな。人のように見えるが、人で
  はない。云ってみれば、新しい「人」という
  ところだ。
祈る人は真実を云い当てられて
少しばかりうろたえた
――お前さんが来てくれて、俺は嬉しい。だが、
  お前さんは俺が待っているもののほんの一部
  でしかない。俺が待っているもののすべてに
  会えるのは、まだまだ当分先のことになりそ
  うだ。その間に、死が何度俺を連れ去るのだ
  ろうか。だが、それでも俺は何度でも生まれ
  変り、待ちつづけるだろう。相変らず、この
  橋の下で。
橋の下で
輪廻を繰り返す男が眼の前にいる
これこそまさに
魔物にふさわしい
祈る人は驚嘆の眼で
男を見た
――俺は待っている方の人間だが、お前さんは俺
  の見たところ、待つよりは自ら行く方の人間
  だ。行くがいい、自分の道を。だが、時には
  休息も必要だろう。今夜お前さんがどこかで
  休みたいのなら、この先に廃屋がある。そこ
  に行って休むといい。
祈る人はふらふらと立ち上がり
男に一礼して歩き出した
歩き出しながら
祈る人は思った
本当は
俺も
待っているのかもしれない
あの男のように
自分でもわからない 何かを

男に教えられた廃屋は
橋からさほど離れていないところにひっそりと
建っていた
ここから橋は見えるが
男の姿はもう 見えない
あるいは橋の下の闇に
まぎれてしまったのかもしれなかった
祈る人は
廃屋の中に入った
廃屋は彼を待ち受けていて
その中は子宮よりも暗く
ずっと
広かった



川の書

これは、川畔に立つ廃屋で祈る人が見つけた、川について書かれた書物からのほんの抜粋である。



川――それは流れるものであり、その流れは上流から下流に向かって不可逆のものである。

川――それは多量の水分の果てしない移動であり、それらの水は宇宙の法則によって生かされ、移動させられている。

川――心あるものは胸に留めよ、それが己のいのちそのものであることを。この流れゆくいのちの上に橋を架けることは許される。他人のいのちの水飛沫に衣服を濡らされずにその上を渡ることは、誰にも備わった当然の権利である。また、その中に深く入りこみ、全身ずぶ濡れになって、いのちからの贈り物を受け取ることも許される。全てのいのちは万人にとって共有の財産である。だが、その流れの一部あるいは全体を故意に汚したり、己の好きな方向に流れを変えたりすることは大いに呪われる。これらのことを行う者は、自らのいのちでさえ同じように扱うであろう。

川――それは魂の水路であり、全ての魂はこの路を通って次の場所へ赴く。たったいま肉体を離れた魂も、これから新しい肉体に宿る魂も、みなわけへだてなく、この同じ路を辿る。肉体を離れてから多くの時を経ていながら、なお次の肉体に宿ることの出来ない魂はひとつのところに集まっており、人はその場所を淀みと呼ぶ。そんな魂があまりにも多く集まり過ぎた時には、天は雨を降らせ、水かさを増させ立ち止まった魂が一刻も早く目的地に着けるように手助けをしてやる。

川――それが流れることに、人は意味を求めてはならない。それがひとつの流れとしてそこに在ることが重要なのであり、意味を求めれば、世界はたちまちにして均衡を失い、やがて崩れてしまうであろう。その流れは法則にのっとって流れているだけなのだが、物理学は哲学や宗教に似ているということを、人は心に銘記しておくべきである。

川――それはひとつの歌であり、流れつづけることで旋律を奏でる、楽器と演奏者とが一体になったひとつの体系である。魚はその旋律の中で歓喜を覚え、水鳥はともに歌い始める。そして人はただ聴き惚れるのみである。

川――それでもそれはただの水分の絶えざる移動であり、その眺めは、昨日も明日も変らずにいることが望ましい。



祈る人はこの書物を一晩で読破した。いまにも朽ち果てそうな埃臭い廃屋の中、蝋燭の頼りない灯りで読むそれは、彼にいくらかの感銘を与えた。だが、彼の人生を根底から覆すほどではなかったし、隕石は彼にとってまだ、あまりにも遠かった。




自由詩 連作「歌う川」より その2 Copyright 岡部淳太郎 2007-04-02 19:05:32
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