無名の歌
岡部淳太郎

どこかで聴いたことのある歌
その旋律が 流れてくる
思い出せない
歌の名前
思い出せない
記憶の糸が絡まっている
それでも
どこかで聴いたことがある
それは確かなのだが

思い出せない
ということは
名前がないということ
歌だけではなく
人も物も土地も
それらの名前も
思い出せない
その時に消え失せる

あの時行った場所は
その名前は何だったか
あの時会った人は
その名前は何だったか
思い出せない
その名前
無名の土地で
無名の人と
無名の時を過ごす
その時自らも名前を失くし
無名の陽射し
無名の絵画の中に放りこまれる

思い出せない
ということは
名前がないということ
歌のように
人も物も土地も
それらのあやふやな記憶が
思い出せない
ということの中でゆっくりと消えてゆく

どこかで聴いたことのある歌
その旋律を 君は歌っていたのだが
歌の名前は思い出せなくても
君の名前も
君のことも
憶えている
いつでもはっきり
痛みのように
思い出すことが出来るのだが

思い出せない
ということは
君のすべてを忘れてしまうということ
そんなことには耐えられないから
思い出す
君のことを
いつでも好きな時に
思い出すことにしているのだが

それでも
君は忘れ去られるだろう
人の生活から
人の生の行路から
ゆるやかに閉め出され
君は忘れ去られるだろう
君の名前も
君のいた日々も
それらの人びとにとっては
思い出せない
君は無名の不在
数多くの死者の中の
ほんのひとにぎりの中のひとり

君はひとり
やがて忘れ去られる者として
いってしまった
無明の里へ
思い出せない
名前を失くした
ひとりとして

ひとりとして
君のことを知る者がいない未来
その世界へと君は旅立ってしまった
ひとり
ただのひとりとして
歌いながら
やがてみんなも
君の後をゆっくりと追ってゆくのだが


自由詩 無名の歌 Copyright 岡部淳太郎 2007-03-26 21:04:20
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3月26日