ちょっとわかって、ちょっとわからない。
ななひと

「ちょっとわかって、ちょっとわからない」詩が、人気がでる詩のひとつの条件である。と書くと、怒る人が多いかもしれない。例えば詩は自分の心の素直な表現であって、わかるとかわからないとかの問題ではなく、真実をストレートに表現すれば、人の心に訴えるのだ、という人もいる。
しかし、その人の「心の素直」さを、全くストレートに表現した詩が、次のようなものである場合、人はそれを「良い」と思うだろうか?

習慣性 廃盤 凝集 隘路 排気筒 鈍磨 濾過 出納 白亜鈍磨 路上倍角 低く 馴れ合い の 蒸気機関 蛙 削ぎ落とし 組成 重機 鈍磨 予防 する

おそらく人はこの「詩」(?)を「わけがわからない」「意味不明」と言って、「良い詩」とは言わないだろう。手前みそで申し訳ないが、上の詩は私(ななひと)の詩の引用である。実際ポイントは1票しか入っていない。しかし、作者の私にとっては、これは私自身の「心の声」そのままなのである。萩原朔太郎の「狂水病者」は、「水」を恐れる。それを人に伝えようとするが、人には全く分かってもらえない。「なんで水が恐いの?わけわかんない」と言われる。しかし、本人にとっては重大な問題である。水が恐い。恐くて恐くてたまらない。しかし、だれもわかってくれない。これが「犬が恐い」ならまだ分かる。「犬吠えるしね」「うーん、犬が嫌いな人もいるからなあ」と一定の理解がされる。しかし「水が恐い」と言っても誰にも理解されない。「だって水って生きるのに必要でしょ」「水が恐いって意味わかんない」と言われる。本人は水を見ただけでパニックである。ぶるぶる震える。しかし、水を飲まないと生きていけない。恐いけれども飲まなければ死ぬ。だから生きていくのが困難である。
そういうわけで、もとの命題にもどる。「ちょっとわかって、ちょっとわからない」詩が、人に読まれるのである。人は、全くわからない詩はわからない。(当たり前だ)。わかる部分がなければならない。しかし、全部わかってしまう詩は評価されない。なぜなら「そんなのありきたりでしょ?」「普通じゃん」と言われるからである。だから、7〜8割くらい分かる言語で書いて、残りの2〜3割に、ちょっとわからない要素を残しておく。すると人は分かる部分を元に、解読を始める。「一体この人は何が言いたいんだろう」そして発見する。「あ、なるほど!」「お、すごい!」。読者は、わからない部分を自分で発見、補填して、その人の詩にすごさを感じ、自分自身の感性に新しい要素を取り込むのである。そのバランス感覚、言語感覚に優れた人が、優れた詩人になりうる。これは至極当然のことである。
こういうことをかくと、私は、そういう詩を書くことをけなしていると思うかもしれない。そうではない。私もそういう詩が書きたいし、そういう詩を書くためには、苦労、才能があり、そうした詩人の「新しい」詩を読むと感動する。
しかしだ。最後に全部ひっくり返すが、詩は「わかる」「わからない」で判定できるものなのか。「わかる」とは一体なにをもって「わかる」のか。そんなことは全く「わからない」のである。


散文(批評随筆小説等) ちょっとわかって、ちょっとわからない。 Copyright ななひと 2007-03-23 08:42:46
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