絵描きを夢見て、詩人を目指した
雨露 流

詩、という漢字一文字に込められる思い、意味は様々だ。
またどういうものを“詩”というか、捕らえ方も人それぞれだと思われる。
絶対的な定義はあるのかもしれないが、ここでは私自身の書く詩、またこれから書いていきたい詩について独白させてもらう。


私の書く“詩”というものは端的に言ってしまえば“連想ゲーム”に過ぎないものだった。
それは即興であり、それは推敲時間ほぼ0で書かれたもの。
思考と同時にタイプをしていく作業。
前後の文章の矛盾、文脈の破綻、それらが起きないように“記号”を“文章”として意味をもてる形に並べていく作業的な行為。
それを私個人の最大限の自由で“詩”と呼んでいたに過ぎない。

見方を変えれば、私自身の思考の整理にすぎない行為だ。
詩を書こうとしたその時、頭に浮かんだものが例えば恋愛に関するものなら“恋歌”が生まれるでしょう。


今、ここで綴られる文章の終りは私には見えていない。


これは詩に対する私の思いの独白。
ただ“詩人”という存在に憧れていただけの私の自己主張。
この行為の意味、この文章の意味。それは“記号”の持つ意味を超えなければならない。

私がここに打ち込まれた“記号”に思いを込めない限り、“記号”は世界が与えた意味しか持ち得ない。

愛は愛であり、辞書にその意味が記されている。
私はこの“記号”を使い、“文章”を組み立てる。

    「君を愛した でも それは幻想 
    
    私は誰も愛せない 

    窓の無い部屋で膝を抱えてるだけだから

    傷つくのが怖い 君に傷つけられるのが怖い

    臆病な私は愛を渇望するふりをして 拒絶する」


この“文章”は詩なのか。
この文章に私の意思は含まれていない。単純な連想で書いたものである。

こういった行為を繰り返し、私は気づいたのだ。
それは私自身にとっての“詩作”という行為の在り方。

“詩作”とは

「“記号”の持つ意味、それを超えた“思い”を“記号”に込める作業」

作業、という言葉を使うのはそれ以外の巧い言葉を知らないからである。
語彙力の貧弱さに嫌気がさすが、ここではそれに言及することはしない。


ただ私がこれまで何をしてきたのか、これから何をしていくのかを書き連ねたい。


今までの私は私自身のために、すでに用意された“記号”と“意味”を並べていただけに過ぎない。
辞書に記された意味だけで、私の文章の意味は理解されてしまう。
それ以上でも、それ以外でもないのだ。

それを超えたものこそが“詩”でありえると思う。


ただ私の書く文章のジャンルが分からない。
この文章を散文やエッセイ、として投稿していいかすら分かってない。
自分自身の文章を評価、分析できないのだらか浅学甚だしいと思われるかもしれない。
しかし、この文章は“詩”という創作行為を行ないたい、という決意表明なのだ。
だからここに投稿することを赦していただきたい。

この文章を私自身で読み返したとき、初心に立ち返れるように。


さて、私は“詩作”を「記号に思いを込める作業」と書いた。
その作業をする理由はどこにあるのだろう。
作業をしようと思い立ったきっかけはなんであろうか。

何かを伝えるために、自分を表現するために、“詩作”をする理由も人それぞれであろう。


ところで私は絵画が好きだった。
別に私が美術部だったとか、私に絵を描く趣味があるわけではない。
ただ鑑賞することが好きなのだ、すぐれた絵画を眺めることで心が癒された。
私はそれらを描いた画家にも興味がでてきた。何故、描くのか。何のために描くのか。
その理由を知りたかった。

生活の為……。賃金を得るため……。

その程度、いやそれは重要だろう。しかしだ、現に生きているうちには一枚しか絵が売れなかった画家もいる。
その一枚も友人が買ったに過ぎない。

では、彼は何ゆえ描いたのか。そんなことは知る由も無いが、彼の描いた絵は全て自画像のように私に映った。
夜のカフェテリア、精神病棟の窓から見えた川、カラスの舞う麦畑、たくさんのひまわり、左耳をそぎ落とした自画像……。
目に見えたものしか描けない、想像で描くことができない、そんな彼はそれら全てに自己を投影した。
彼は自分自身の苦悩、苦痛、喜び、希望、すべてを絵筆に乗せてカンバスに描き出した。
描くことでしか、彼は自己主張できなかった。

歪んだ背景、渦を巻く空、行き先の分からない途切れた道……、麦畑の中心で、彼はピストルを手に取りこめかみを打ち抜いた。

その行為の意味は知ることは無い、人生に対しての絶望だろうか。

彼の絵画は死後、絶大な評価を受けることになるのだが……。

そんな彼の絵画を、別の画家はこう評価した。“なんて泥臭い絵画なんだろう”と。
その画家は婦女子や子供、光溢れる景色など優雅に美しいものばかりを描いていた。

“何故、そのようなモチーフばかりなのか”と尋ねれば、その画家はこう答えた。

“人生には不愉快なものが多い。なぜこれ以上不愉快なものを作らなければならないんだ”と。

彼ら二人の例に過ぎないが、創作理由とは人それぞれであろう。
それを追求する、人と比べる、そういったことは大事なことかもしれない。
しかし、それに重点を置きすぎる必要はないと思う。

創作理由がなんであれ、それを完遂させることこそが大事だと思われる。

そうして描かれた作品は創作者の死後も何千年と人類を魅了し続けるだろう。
彼らの絵画がそうであるように。

魂の込められた優れた作品は、言語や文化、人種、時代、その他様々な壁を越えて人々に響くのだと、私は信じる。


論点がまとまってない、そう思われるかもしれないがここに書かれたのは、私の創作活動に対する決意表明。


私は絵を描きたかった、しかし、私にはその力が無かった。
優れた絵画を鑑賞するうちに、私にはそれ以上を描くことが不可能だと知った。
それはアマデウスに対するサリエリのような絶望感。映画の中での話だが。

私は絵筆をとることを諦めた。

そして苦し紛れに詩を、いや、“連想ゲーム”を始めたのだ。
目の前にある絵画を自分の中に投影する行為。ありったけの語彙で、その絵画を表現することにしたのだ。

この絵画は――。この曲線が――。これはあれを――。まるで――。この画家の精神は――。

そんな事しかできない私は悔しかった。いや、それでも大きな喜びを感じているのだが。
優れた絵画を眺めていると、時間を忘れて見つめてしまう。
語彙を超えた情報量。圧倒的かつ、一方的な思いを受け取る瞬間、それは何事にも変えがたい喜びなのだ。


そうこうしているうちに絵画を鑑賞している時だけでなく、普段の何気ない情景や出来事から“連想していく”ことを始めたのだ。
自分自身の感情の変化や内面、思考、思想、それらを含んだ“文字列”を書き連ねることに繋がった。


そして、私は“詩”というものを道具にして絵画を描きたい、と思うようになったのだ。


言葉は絵筆であり色、カンバスはどこでも。


そう“目に見える詩”を描きたい。それを強く思うようになったのだ。

情景が目に浮かぶ、そういったものでもあるかもしれない。
しかし、“読む”という行為から“記号”以上の意味を、思いを、思想を、情景を強制的に伝えられるほどの詩を描きたい。

一次元的な情報だけでなく、平面を超えて立体となる詩。

それが私の詩作理由であり、目指す作品の形である。


そして、この長々とした前口上の結論でもある。



散文(批評随筆小説等) 絵描きを夢見て、詩人を目指した Copyright 雨露 流 2007-02-20 17:50:08
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