■批評祭参加作品■詩の読み方について
岡部淳太郎

 詩の読み方といっても、そんなものが決まっているわけではないし、決められるものでもない。読者は自由に、自分の読み方で詩を楽しめばいいのだ。だが、そう思う反面、詩の読み方に根本的な誤りがある人が多いような気が、時にしてしまう。特に一般に「難解」だといわれる詩の読み方についてだ。いかにも現代詩ふうの詩がイメージされるが、実は本当の意味で難解な詩など、どこにも存在しないと思う。その詩がひとつの作品として立派に成立している限り、難解であるはずはないし、難解になりようがない。もしそれが本当に難解なのだとしたら、それは詩として失敗しているに過ぎない。逆に作品の完成度という意味で成功している詩であるならば、難解であるはずはないのだ。だが、そうした詩を読めない、わからないと言って、投げ出してしまう人がいる。そのような人たちが「難解」な詩を読むには、いったいどのような読み方が適当であろうか。最初に書いたように詩の読み方に規範などあるはずはないが、詩を読む、あるいは味わうためのコツみたいなものはあるかもしれない。それがつまり、「詩の読み方」ということなのではないかと思う。
 現代詩の難解さを云々する人たちを見ていると、どうも詩を散文と同じように読もうとしてつまずいているような気がしてならない。詩が小説やエッセイと同じく文字で書かれているからといって、散文的な読み方ばかりで通そうとする人が多いように思えるのは何故なのだろうか。詩は詩であって散文は散文であり、その両者は明らかに違う。だから、読み方も違ってきて当然ではないだろうか。
 まず、詩の特徴について考えてみたい。散文よりも顕著な詩の特性のようなものとは、いったい何だろうか。それは時に行分けされたスタイルであり、時にリズムの心地よさであり、時に韻律の響きであり、時に喩の多用であり、時に散文一般に比して短いという点であろう。これらの詩の特徴を考え合わせてみると、もちろん様々なスタイルの詩があるものの、それらの「詩」と名づけられた文芸作品すべてを同じ方法で、つまり一般の散文を読むのと同じ読み方で読むのは誤りであることがわかる。誤りというか、方法として合っていないのだ。詩にそれらの散文的でない特徴がある限り、散文を読むのと同じやり方で詩を読むのはかなり無理があると思う。
 それならば、散文を読むのと同じ読み方で詩を読むとは、どのような読み方だろうか。それは端的に言えば、ストーリーを追うように、起承転結に身を任せるように詩を読むということであろう。もちろん詩の中にも散文脈で理解出来るものはたくさんある。だが、散文脈で綴られていることが詩にとっての必要絶対条件ではない以上、それは読者に対する配慮とか詩の外面の意匠とか以上の意味を持ちえない。だから、散文脈で充分に理解出来る詩をその散文脈のままに読むということは読みが浅いと言わざるをえない。たとえそのような種類の詩であっても、その詩の本当のツボはもっと別のところにあるのだ。
 詩が詩であるために、散文が散文であるために、詩と散文のそれぞれの特徴、言いかえれば詩と散文の違いというものは、きちんと意識されなければならない。それは書き手にとってもそうであるし、読み手の方にも同じことが言える。詩と散文の違いについて、かつてポール・ヴァレリーは語った。「散文は歩行であり、詩は舞踏である」と。この有名な言葉が言わんとすることは、おぼろげながらもわかるような気はする。散文には常に出発点があり、到達点がある。問いを投げかけて後にそれに対する答が返ってくるように、散文には一本の道筋が必要だ。だが、詩には必ずしも道筋は必要ない。散文と同じように道筋をたどっているように見える場合も多いものの、舞うようにくるくると回っていても詩として充分に成立する。散文には言いたいことを確実に読者に伝える機能が必要だが、詩は決してそれのみではない。たとえ同じところを回っているだけであっても、その回転運動が美しければいいのだ。
 ヴァレリーの言葉は魅惑的ではあるが、何か言い切れていない感じもする。この定義にはどこか不完全な印象がある。どこか舌足らずな感じが否めないのだ。私はヴァレリーのように優秀な頭脳を持った詩論家ではないが、あえてこの定義を言いかえてみたいと思う。私が詩と散文の定義として用いたいのは「散文は動画であり、詩は静止画である」というものだ。先ほどのヴァレリーの定義とさほど変らないように見えるかもしれない。だが、ヴァレリーの定義は実作者としての視点からのみ語られているように思える。読者の視点がぬけ落ちているのだ。さらに言えば、詩を舞踏にたとえるのは少しばかり高踏的に過ぎるように思う。いかにも芸術的すぎるように思えてしまう。歩行と舞踏と言うのではなく、動画と静止画と言った方が現代の人にとってはずっと通りがいいだろう。しかも、散文を歩行にたとえるのは、ヴァレリーより後の現代小説の発展と進化を考えると似つかわしくないような気もする。詩のような散文や散文のような詩があふれかえった現代においては、やはりいささか古めかしい。
 では、私が考えた「散文は動画であり、詩は静止画である」という定義に基づいて詩を見るとどうなるか。動画とは映画やドラマなどの動く絵のことであり、静止画とは写真や絵画などの止まっている絵である。静止画はその名のとおり静止している。たとえば、ここに一枚の絵画があると仮定しよう。画面の手前に古びた門があり、その奥に一本の道がまっすぐにつづき、その先には形の良い山が空に向かって聳え立っている。もしこれが一篇の短編映画のオープニングシーンだとしたら、観客は当然そこからつづく映像を期待するだろう。ひとりの人間の視点を借りたカメラがゆっくりと移動する。山に向かってまっすぐ伸びる道を、カメラは進み始める。その先にいったい何があるのか。視点は道をまっすぐに進んで山を登り始めるのか。それとも、ふと立ち止まって左右を見渡すのか。観客はオープニングシーンからつづくであろう光景を想像して身構える。つまり、それは散文性を了解して見ているということである。ここでは、映像と観客の間に齟齬は生じていない。映像は散文脈で語られ、観客も散文脈に則って見る。だが、ただ一枚の絵画に対して、観客はその先の展開など期待しない。散文脈のルールで絵画を鑑賞する者など存在しない。ただそこに描かれているものを見て、味わうだけだ。詩が散文脈からかけ離れたふるまいを見せる時、詩を一枚の絵画を見るように読むということは、詩を十全に味わうために有効な手段であると思われる。詩は説明しない。言葉はそこに置かれ、その物質性を静かに主張するだけだ。たとえ奇異な表現や晦渋な喩が使用されていたとしても、それを言葉の物質性そのままに受け止めれば、充分に詩を味わうことが出来る。私がこの小文の冒頭で「本当の意味で難解な詩など、どこにも存在しない」と書いたのはこういうことだ。散文脈から離れた奇怪な姿をさらしているように見える詩を、散文脈のルールで読もうとしても理解できるはずがない。それは一枚の絵画に対して、その先のストーリー展開を期待するようなものだ。散文脈で読むということは、頭から順を追って結論を期待して読むということである。そうではなく(表面的には、やはり一行目から順を追って読むのだが)、一篇の詩をまるごと俯瞰するように読むのだ。まるで一枚の絵画を眺めるように詩を読むのだ。そのような読み方をすれば、これまで難解だと思えた部分も難解だと思えなくなり、そこに隠されていた美点がにわかに立ち現れてくるだろう。私の考えでは、難解な詩というものはそのような読み方でしか味わうことは出来ないと思う。
 だが、それには少しばかりの慣れやセンスみたいなものが必要になってくるかもしれない。どうしても散文脈から離れられない人もいるのだ。しかし、多くの詩を読めば読むほど、しだいに詩を読むコツのようなものがわかってくる。それは頭ではなく、肉体的につかみとってしまうものだ。読者よ、詩を読む時は心を静かに保つが良い。そうして平静にしていて、散文脈の誘惑から巧みに逃れて詩を読むのだ。そうすれば、やがてそこに隠されていた息づまるような抒情が、あなたを静かにとらえ始めるであろう。



(二〇〇六年十二月)


散文(批評随筆小説等) ■批評祭参加作品■詩の読み方について Copyright 岡部淳太郎 2007-01-08 21:55:02
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