散文の習作 近代俳句について/田中教平
 
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- 田中宏輔2 
- 洗貝新 
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- 菊西 夕座
 俳句も、又吉さんの作品も、とんと無知なのですが、それだけに新鮮で、興味深く読ませていただきました。

 文字とレイアウトの組み合わせは、電子媒体と結びつくことで、まだまだ発展の余地が大きくあるように思われました。もうすでに電子詩という形で、多くの試みが展開されているのでしょうけれど、まだ時代に追いつけず、暗い森の中をうろつきまわっている私ではありますが。

 たとえば宮沢賢治の「風の又三郎」なんかは特別な人物ですから、この変わった転校生だけ人物を文字で表して、あとの子どもたちは普通にアニメーションで表現し、アニメと文字の交流を通して童話に詩(又三郎)を差し込むという遊びなんかも面白いかもしれません。ブランコにのっているうちに「又三郎」が「又吉」に揺らいで、「ブランコの止め方を教わって無かった」という一句とともに空へ飛び去ってしまうような描写があってもよいかと思います。

 一方で、文字の手軽さというのもあって、わざわざアニメをこしらえなくても簡単に言葉がおこせるというのは簡便でよいですから、あまり荷物をもちたくない放浪者にとっては、息を吐くのと同じような感じで言葉をつむいでいくというのは理想かもしれません。もっとも、山をわけいっていけば息も荒くなるでしょうし、その中で大自然と息を合わせていく営みは、またちがった厳しさ、過酷さ、困難さを伴うことにもなりましょうが。

 ということで自然描写ですが、私なんかもやはりラブクラフトの小説なんかが好きなのは、ひとつにはしっかりとした自然描写があるというのが大きいです。しっかりした自然描写は、詩的世界を形成するうえでたいへん有効な手段であると思っております。俳句だと描写は連ねるというわけにはいかないでしょうが、それでもしっかり抜き取るということで、自然を感じさせる。そうすることで世界に輪郭と奥行きが与えられ、個性が際立ち、余韻が深まるのでしょうね。
 
作者より:

コメントありがとうございます。

最近は、自身の身の振り方と諸行無常について考える事が多く
又、コマーシャルやAI詩などの問題も念頭に書かせていただきました。

それはそうと、山を分け入った山頭火ですが
彼のストーリーに相反して彼のスタイルはというと意外に定型的なのです。
山頭火全句集を音律的に分析しましたところ
自由律といいつつ「五、七」音、又「七、五」音、「七、七」音というのを基本にして
後は字足らず字余りの後の処理も概ね同じだということがわかります。

つまり彼は山に分け入ってゆく過程で、「五七五」では長いというところで
より携帯性、そして簡便に優れているように省略等を利用した「定型作家」でした。

ラヴクラフトとは違い、正直彼の自然押しには食傷するものがあります。
全句集よりより簡便な山頭火句集で充分だったのかという疑問も持ちつつ
今、彼の晩年の作について追っているところです。

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