散文の習作 近代俳句について
田中教平

 私は又吉直樹・せきしろ著「カキフライがないなら来なかった」を本棚に戻した。そしていつもの椅子に座り、考えた。

「カキフライがないなら来なかった」は自由律俳句集である。その作品群の多くは、表題のような、大喜利の答えのようなもの、それから生活の、あっ、と思った瞬間を切り取ったような作品で占められていた。

 私は以前、或る自由律俳句の結社に所属していた事がある。
 まず山頭火にぶつかった。その師匠にあたる井泉水を遡る事ができた。尾崎放哉の師匠も井泉水であった。
 その井泉水に影響を与えたのが、正岡子規の弟子、河東碧梧桐であった。
 河東碧梧桐がなぜ、新興俳句、または自由律俳句と、その表現の型の変化に踏み切ったかというと、そこには俳人特有の書、と、文字の関係があった。
 碧梧桐は書家の傾向が強く、紙という限られた型の上で、文字がどのように躍動するか、という問題意識を持って、俳句の方を、単純な五、七、五ではならぬ、と考えた、と思われる。
 当時は、雑誌にインクで印字された形での発表に限らず、書として、毛筆でもって、俳句を発表する事もおおいにあったから、そしてその文字のレイアウト、の問題意識があって、俳句の方を改善せねばならぬ、というのが、そもそもの新興俳句の、大元の、共通理解であったと思われる。
 この点、実際の碧梧桐の書が「なんだ、これは」というものだったから、私は驚いた記憶がある。
 しかし、書に於いては幾ら躍動感を持って展開される、約束事に縛られない俳句も、新聞、雑誌にインクで掲載されると、一読、おかしい、一見、謎、という印象を与えてしまう結果になってしまった。
 
 碧梧桐のライバルであった高浜虚子は、実は書に自信がなく、こんな文字ではいかん、と正岡子規に指摘されつつも、ずっと、さらさらと五七五を、とにかく書き下す、という「余裕派」に徹した。
 しかし虚子には武器があった。それは代わりに印刷機が文字を書いてくれる、という点であった。そうして、雑誌、ホトトギスは日本人の、俳句といえば、季語一つ、五七五、という基本的な形を、芭蕉を再評価するなどする形で、決定してしまった。

 自由律俳句の結社には、高齢に関わらず毎月欠かさず、自由律俳句を投句している女性がいた。ひと月に七句、投句できるが、納得がいかないのか、体力的な問題か、ある月には三句しか載っていない月もあった。
 しかしこの方は句に必ず自然を入れ込んでいた。
そういえば、山頭火も、その句が破綻しても自然描写を加えていたが、先の「カキフライがないなら来なかった」は、全くそんな事はどうでもよさそうなのであった。

 


散文(批評随筆小説等) 散文の習作 近代俳句について Copyright 田中教平 2026-02-28 12:41:32
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