以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- - りつ
- おはようございます。
時折、詩は公前ストリップだと思うことがあります。
- - 洗貝新
特にある程度詩を囓った人間が最後には必ず言う言葉。詩は糞のようなものである。わたしも言いますね。ほとんど必ず言う。このことは貴方がおっしゃるように予定された逃げ道でもある。何故そう言って逃げ道を作っておくのか。と言えば自身の裸を見せずに済ませられる。一人こっそり隠れてトイレにしゃがみこめるからでしょう。
吉本や高橋に村上各位大先生のお言葉も良いと思えて受け入れるのは、自分にそのこと以上を拒否反応で示せる確固たる自信がないからで、それには万人が思いも依らない思考を提示して示せるか否かが鍵になる。と思うのですが、やはり先達から学ばなければその先へも進めない。というジレンマはある。詩は糞である。というときそれは自身とは切っても切れない大切なものだ、という自覚がそう呼ばせるのであって、つまりは詩人も文学者も人間以上の何者でもないのである。という結論しか見出せないのがまた悩ましい。のです。
※訂正
自身→自信
---2025/07/26 07:04追記---
- - 杉原詠二(黒髪)
- 倫理は服と関係があるが、難解な詩の理解に服はまったく関係がないと思われる。私の理屈に違和感を覚えられる方は、比喩についての理解がなっていないだろう。詩が倫理的であるかどうか、というのは、また別の話だ。詩は言語芸術であり、自分の衣服とは何の関係もない。言葉を操るということは、技術と思考の問題であり、倫理はその核にあるだけであり、倫理的であったからといって、難解さが減ずるわけではない。例えば、埴谷雄高の『不合理ゆえに吾信ず』というクソみたいな題名のアフォリズム集があるが、その難解さは、ただ難解であるというだけであり、その倫理性自体は、難解さとは微塵の関係もない。難解さを称揚することには言語的問題があるが、倫理とは法であるから、難解であろうがなかろうが、正しいものは正しいのだから、そこら辺をよく区別しないと訳が分からなくなる。
---2025/07/25 09:55追記---
- - 田中宏輔
- - wc
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