服を脱げば皆同じ
室町 礼
えー文学の世界の大先生方を呼び捨てにするのは誠
に心苦しいのですが敬称略ということで語らせてい
ただきますので、どうか聞き苦しいこともあるかと
思いますがよろしくお付き合いのほどお願い申し上
げます。
ということで、えー、
わたしはどうも高橋源一郎とか村上春樹らの口語の
エッセーとか雑文なんかの語り口がどうも苦手なん
です。それは糸井重里なんかもそうでまるで幽霊の
ようにそっと近づいてきてウソ寒い倫理のことばを
こそっと口にして去っていく。その去り方も比ゆ的
にいえば男のくせにお尻を振るよう
な内股の風情で歩き
(「どう、凄いでしょ、わたし」)となにやら遠目
にやっとわかるくらいの感じで目配せしている。
そんな感じがどうも薄気持ちわるい。
この方々いったいどこからこんな気色悪いことばの
態勢というか仕草を学んだのかと思い巡らせている
と、そういえば共通して文学界の大御所、吉本隆明
からお褒めにあずかった人たちだ。詩人の荒川洋治
も吉本から大絶賛されていたっけ。考えてみると荒
川にも確かにそういうところがあった。(数度しか
お目にかかったことがないのですが)
これはいったい何だろう。何かひっかかる。
そこで思い出したのが、
高橋源一郎の『さよなら、ギャングたち』を絶賛し
た吉本が『個の想像力と世界への架橋』という講演
においてその小説を取り上げこういうことをいって
いる。
高橋源一郎さんの作品は、まさに詩歌が当面し
ている問題そのものであると言えます。作中の
人物が詩をどんな風にとらえているかすぐにわ
かるところがあります。その部分をちょっと挙
げてみます。これは、作中の中の「私」が詩の
学校を開いている場所に出てくるものです。
―もしあなたたちの誰かが心の底から、詩を書
きたいと思い、しかもどうやって、何を、書い
ていいのかわからなくて悩んでいるなら、ここ
へ来てもらいたい。
わたしはあなたの話をきく。
話すのはあなただ。
どんな微妙なことでも、はずかしいことでも、
つまらないことでも、あなたに話してもらいた
い。地下室に二人きりで、性の話をしていても、
わたしは決してあなたにとびかかったりはしな
い。 話しているうちに、あなたはきっとリラ
ックスできるようになるだろう。あるいは「計
算をまちがえて危険日にかれとしちゃったので
不安なの」と言って涙ぐむかもしれない。結構、
泣きたければ泣きたまえ。死んじゃってからで
は泣けない。
そうして あなたは自分で、書くべきことを見
つける。「よかったね」と言って、わたしはあ
なたと握手できる。―
つまり、この箇所は何を言っているのかというと、
この作品に登場してくる私の「詩」についての考
え方、「詩とは何か」ということで、その何かは
わかりませんが、鎧とか、冑とか、制約とか無意
識の抑圧とか、そうしたものを全部取り払ったと
ころで、言葉がもし濃くなるところがあれば、そ
れは「詩」なんだということを言っているのだと
おもいます。つまり「詩」とはそんな風に全部を
取り払ったところで出てくる言葉で、しかも、そ
の言葉に濃いところがあれば、それがどんな言葉
であれ、「詩」なんだという考え方を象徴してい
ると思います。
高橋のも吉本のも、今聞くとなんとベタなことばで
しょうか。
わたしにはあらかじめ決められた予定調和のような
ことばに聞こえます。偉そうなこというようですが
ちょっと感性を磨いたかたならすぐにわかるはずで
す。案外、わからない人が多いのであへ~っとなる
のですが、
この感じ、うまくいえないんです、いかにもらしい。
サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の
ホールデンが、先生の「正論」を聞いて突如眠気に
襲われるような怪しさがある。
わたしが某「詩の学校」のようなところへ勉強に行っ
たときも尊敬する中堅の詩人さんが別の角度から同じ
ようなことをいわれました。「あなたが身にまとって
いるものを一枚一枚脱いで裸になることができれば難
解な詩も読み解くことができるはずです」
これはたぶんそうなんでしょう。詩を読むという角度
からなら正しいような気もします。その詩人も学生の一
人でしたが教室でわたしたち初年の素人相手に井上陽
水の歌詞を解き明かしてくれましたがみながため息を
つくほどの見事な解釈でした。
しかし、わたしには詩をはじめる一般の初心者が吉本
のような、あるいは高橋がいうようなことをしてちゃ
詩なんかいつまでたっても生まれるとは思えないので
す。
─つまり「詩」とはそんな風に全部を
取り払ったところで出てくる言葉で─
という言い方にはどうも賛同できない。そういうこと
をすれば詩ができると思って本気に受け取って一生懸
命そういうふうな境地に至ろうとしても、う~ん、
そんな境地には至れないし違うような気がするのです。
わたしの知人に何故か女性にモテる男がいまして、た
だそこに居るだけで片っ端からモテる。その男がいう
には「(女なんて)脱いだらみな同じ」だそうで、服
を着ているからそれぞれ違って見えるし個性的にも魅
力的にも見える。でも脱いだら一巻の終わり。どこに
もいるありきたりの女一般にしかみえない、という。
わたしもそう思うのです。つまり詩というのは「鎧と
か、冑とか、制約とか無意識の抑圧とか、そうした
もの」を脱ぎ捨てて裸になることじゃなく、鎧とか冑
とか、制約とか無意識の抑圧とかをみつめて表現する
ことじゃないかと。
高橋源一郎の小説の表現がどうして胡散臭いかという
と詩なんかほんとうはちっともわかっていないくせに
吉本がいうようなマニュアルチックなお約束のことば
を書けば受けるだろうという計算があることです。た
だ、本人もそれがそうであることがわかっていて、だ
から一見、"ポップな"口調で誤魔化そうとしているの
ではなかろうかと邪推するのです。だって、
一枚一枚鎧を脱いで裸になるってことは「本当の自分」
に出会えってことでしょ? でも「本当の自分」なんて
一枚一枚脱いだらそれこそなくなってしまいますよ?
わたしたちは空っぽの自分を一枚一枚の衣装や苦悩や
制約や抑圧で包んでいるのじゃないのでしょうか?
「青年の船」という何やらサヨクリベラル系がやってい
る怪しげな船旅のポスターをよくみかけますが、この旅
に参加した青年のルポを読むと船上でこんなことがあっ
たといいます。
青年たちと講師であるお坊さんとの間で「神はいるか」
という議論が煮詰まった。その青年一人だけが「神仏な
どいない。いるなら見せて下さい」と強弁するとお坊さ
んは只者ではなかったのでしょうね、「神はいるよ、見
たいのなら今すぐ皆の前でそのパンツを下ろしてご覧」
といったという。
船上でしかも夏だから男性は皆が海パンをはいていた。
わたしならパンツを脱げますが、さすが青年には
無理だったのでしょう。降参してしまった。
わたしなら脱げます。少々の羞恥はありますがもともと
孤児擁護施設育ちで失うものなど何もないのだから。脱
いだところで出てくるのはさえない粗チンでしかないの
ですが、そんなものを見せてしまえば大笑いの渦が巻き
起こったでしょう。
これはどういうことを坊さんが言いたかったのか。最後
に残ったパンツ一枚が神であるということでしょう。こ
のパンツ一枚は"共同の幻想"であって、恋人二人のあいだ
では意味をなさない。
う~ん、ちょっと複雑な問題の世界に入ってきたので自
分でも突然膨大な観念が押し寄せてきて、内心、ああ、
面倒になったなと思い始めています。
わたしたちが往来で性器をなぜ隠すのか、恋人の前では
互いになんでもないものが、共同の空間のなかではどう
して羞恥(=タブー)になるのか。
これは文学のことばにも関係しているし、倫理とも関係
しています。結論からいえば文学のことばというものは
極私的なことばであって共同の空間に共有されるもので
あってはならないのです。もしそんなことがあればわた
したちは人間じゃなくなってしまいます。それはもはや
ロボットです。
そんなことをいえば、やっぱり吉本や高橋のいうことが
正しかったのじゃないかと非難されそうですが、いや、
やっぱり違うような気がしています。
倫理という側面からいえば間違っているし文学という側
面からも間違っているような気がします。
わたしの稚拙な能力ではこれ以上ここに深入りできない
ので話をもとに戻しますが、糸井のようなコピーライター
がなぜか倫理を振り回す。その振り回し方が冒頭に述べ
ましたように妙にいやらしい手つきである。本来私性の
ものである倫理を(これは文学のことばもそうですが)
共同体のことばの型式にはめていこうとする。すると倫理
がかたちをかえた昔の道徳のようなものになっていく。
これは高橋源一郎もそうでして、もの凄くいやらしい。
何事か倫理を口にするについて隅々まで退路を設定してお
いて、いつも逃げ道をこしらえている。そのうえでの倫理
の猫撫声。
わたしの知り合いが病院で医者から「な~んにも心配いら
ないからね。ぜ~んぶ任してくれれば治してあげるから」
と猫撫声でいわれてゾッとし逃げ出したというけど、こう
いうことばはもっと乾いた口調でいわれないとゾッとする
ものです。
(つづく)