作者より:
>atsuchan69さん
誰しもが加害者であることを多くの人は忘れがちであるように感じます。
被害者の声はとても大きいですが、
ともかく、詩を書く人だけでも、自分が常に加害者でもあることを忘れてはならないのではないかと思っています。
どうしても自分が存在してしまって、人を傷付けてしまうことの悲しさと言うのか。
でも、究極には、自分が被害者であるとか加害者であるとか、
そんな表面的などうでもいいことを超えたところで、
自分が自分であって、同時に自分ではないところで言葉を書けたら最高だと思っています。
>洗貝新さん
ありがとうございます。
僕は神の子でも天才でもなくて、ただ僕という個人でありたいと思い続けています。
非常に形而下的な、つまり生活や身体の領域を心から愛した人だけが、
天国や神や悟りという、一般的に形而上的と言われているものに一番近付けるのではないかと、僕は思っています。
ひとり孤独に悟ったりして威張ったって仕方ないです。
キリストもブッダも空海も、非常に地上を愛していて、人々の幸せのために実際に行動した人ですよね。
ニーチェについては『ツァラトゥストラ』しか読んだことがないのですが、
やはり彼もまた、個人の底にある個人性を超えた場所を知っていて、
その為に、自分を愛することが、即座に他人を愛することに繋がっていたのだと思います。
この詩に込めたのは、多くの人が自らを平均値に当て嵌めてしまうことの虚しさと、
それ以上に僕自身が、掛け替えのない個人であるという意識を、
積極的に失おうとしていたことへの戒めなのではないかと思います。
誰かと比べての自分ではなく、孤独で内省的な、内面的な世界から見えてくる自分を大事にしたいと今は思っています。
詩とは孤独な独白だと思いますし、また全ての人が孤独であるという意味では、
独白が最も普遍的な力を持ちますよね。
僕は決して厭世的ではありません。
ひとりひとりが、他人とは絶対に代えの効かない自分自身を好きでいてくれたら嬉しいな、と思っています。
そこからしか世界に対する疑問は産まれないし、疑問が無ければ答えも得られっこないと思っています。