ポエム派宣言1「詩のわかりにくさ」/
佐々宝砂
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
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ワタナベ
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岡部淳太郎
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がらんどう
4:単語も文も普通であるが、それが通常用いられているのとは異なる場で用いられている。
まくらの主張は、山形浩生やら大塚英志やらが「ハシゴをかける」だとか「だいたいのところ」だとか言っているのと近いですね。
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川村 透
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伊藤浩子
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佐久間 肇
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瓜田タカヤ
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ミチタカ・マイ
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窪ワタル
ありがとうございました。
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043BLUE
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千波 一也
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Monk
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モリマサ公
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紫乃
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アシタバ
詩の場合、読者が「わかる」というつもりで読んでいるとは限らないとのあきらめもあるのでしょう。単語的な「わかりにくさ」も一種の装飾的効果として、かなりのポピュラリティーを獲得しているようですね。形而上学的書物などからそれらの単語を引いてくるのに、ヘーゲルやヘルダーリンやニーチェやサルトルやハイデッガーやを使用者が理解している必要はないのであって、もともと翻訳に際しての造語である場合が多いそれらにとって、指示対象は不確定なものとならざるを得ないうえに、概念操作によって階梯的に積み上げられていく指示作用の最上部から、いきなり持ち込まれた語彙は何も意味しないのと同様の機能失調をもたらします。難解というのは空虚さの別名でもあるわけです。ただしもちろんそれらの語彙を使用しないでは、叙述できない場合もあるかもしれませんが、一体詩とは何かを叙述し、理解させるという役割をになうべきなのかという疑念がふたたび生じます。
私個人的には「わかりやすい」つまり日常的な語彙を使用することの優位を支持したいと思います。それは自分の書いた(配置した)言語の必然を引き受けることにかかってくると思えるからです。詩はメタ=フィジックなものとしてではなく、あくまで言語の産出(こういうと子産み的なグロテスクの擁護になりかねないのですが)あるいは使用のレベルにとどまるべきであって、パタ=フィジックなものだと思うのです。その意味では小説と立場を異にするものとは思いません。あくまで形式の違いとしてあると思います。
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長谷伸太
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茜井ことは
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ふるる
ポイントしてなかったですね。
なんでだろう。
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相田 九龍
作者より:
4:単語も文も普通であるが、それが通常用いられているのとは異なる場で用いられている。
はありですね、ご指摘ありがとう。
山形浩生は全然よんでません(爆)。大塚英志は一部読んでますが、
民俗関連とマンガと小説ばっかです。
私はそのてーどです(笑
訂正履歴:
タイトル変更
06-3-31 21:04
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