ポエム派宣言1「詩のわかりにくさ」
佐々宝砂
本論にうつる前に、まず文章についての私の考え方の一端を述べたいと思います。私は、たいていの主題はわかりやすい文章で書くことができると考え、わかりにくい文章に出くわしたら、執筆者の腕が悪いのではないかとひとまず疑ることにしています。念のため言っておけば、腕が悪いのではなく、主題自体が本質的にわかりにくい場合もありますので、ひとまず「疑る」だけです。私は、わかりにくい文章を楽しむことも好きです、そういった文章を否定するわけではありません。
しかし、考えてみてください。あるとてもわかりにくい主題―――たとえば量子力学理論―――を書く場合に、ややこしい数式や定義を使って理系大学生にしかわからないような文章で書くのと、ひとつの数式も使わず理科アレルギーの中学生にもわかるような易しい文章で書くのと、どっちがより困難でしょうか? いずれも困難なことは間違いないのですが、どちらかといえば易しい文章で書く方が困難だということは、誰にでも容易に想像できるでしょう。もしかしたら、数式使わずに説明だなんて不可能かもしれません。でも私は、そうした困難や不可能にあえて挑戦した文章が好きです。
詩関係の「わかりにくい」文章は、読者に知識を再確認させる―――つまり読者にあるていどの知識を要求するものが多いように思われます。知識の再確認と突つきあいは、場合にもよるけどそう悪いものじゃありません、それはそれなりに楽しいです。でも、そこに広がりがあろうとは思えません。コミケの同人たちが、狭いマニアの世界でマニアックなマンガの知識をひけらかしあうことと、どれほどの違いがあるでしょう。知識の再確認と突つきあいは、根本的に、閉ざされたオタクたちのものなのではありませんか。とはいえ、あちこちで何度も書いているように、私自身オタクだし、オタクを否定するつもりもないです。ただ、私自身がオタクであるとしても、詩の世界がオタクなのはいやだなあ……と思っているのです。
「わかりやすい」ことを「わかりやすく」伝えることは、読み手にも書き手にもそれほど負担を与えませんが、「わかりにくい」ことを「わかりにくく」伝えたものは、書き手には少しの負担、読み手にはものすごい負担を与えます。「わかりにくい」ことを「わかりやすく」伝えた文章は、書き手にかなりの負担とそれなりの知識を要求し、読み手には少しの負担といくらかの知識を与えます。私は、「わかりにくい」ことを「わかりやすく」伝えようとした文章が好きです。そうした文章―――とりわけ「わかりにくい」ことを「わかりやすく」伝えようとした批評との出逢いがあったからこそ、今の私があります。
そんなこんなで、私は、「ポエム派宣言」をわかりやすく書こうとつとめるつもりです。
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私は最初、この「ポエム派宣言」を、「わかりやすさという挑戦」なるタイトルで書き始めました。すでに書いたように、私は、「わかりやすさ」の追究はそれなりにひとつの挑戦である、と考えています。しかし、この主張は、芸術性の少ない文章になら即適用できますが、詩の場合にも適用できるとは限りません。詩の「わかりにくさ」は、量子力学を説明した文章の「わかりにくさ」とは全く違います。
量子力学を説明した文章は、ひたすらに意味や内容を読者に伝えようとします。一方、詩は、言葉自体の力や味わいによって、なにがしかのメッセージを伝えようとします。詩は言葉の芸術なのですから、詩を書くにあたって言葉そのものを無視しては、詩が詩である理由がなくなってしまいます。よく聞くセリフや、あまりに当たり前の言葉遣いや、広告のコピーみたいに見慣れた文章で詩を書こうとしても、言葉は読者の印象に残りません。するすると自然に読んでしまうからです。内容は頭に残りますが、言葉は残りません。それではさっき書いたように詩になりませんから、詩の作者は、言葉に存在感や重みを持たせようとします。詩の「わかりにくさ」は、そうした、言葉に存在感を持たせるためのひとつの手段です。
詩の「わかりにくさ」は、おおまかに三種類あると思います。
1.単語自体が難しい。一般的でない。
2.普通でない文法を使っているので、意味がとりにくい。
3.単語の組み合わせが普通でない。
私は、3の「単語の組み合わせが普通でない」ということが、詩にとっていちばん大事な「わかりにくさ」だと考えています。というわけで、単語の組み合わせだけが普通でない文章ってどんなものか、考えてみたいと思います。
単語の組み合わせ方には、暗黙の了解みたいなものがあります。ルールというほど厳しくはないけれど、たいていの文章は、この暗黙の了解をちゃんと守っています。たとえば「雨が」とはじまったら、続く言葉は「降る」「止む」「冷たい」「うっとうしい」「好きだ」などになります。そういうのがフツーの文章、暗黙の了解を守っている文章です。しかし、「雨が」のあとに、「ちぎれる」という言葉がきたら、これはなんだかヘンです。ちょっと見慣れない文章です。雨は普通ちぎれたりしませんから。こうしたちょっとヘンな組み合わせが、文学にはたくさん登場します。たとえば、
「雨が/幻の楽団を連れてきた」(「登呂」大畑専)
この文章、文法そのものはたいへんマトモです。ひとつひとつの単語も、全然むずかしくありません。「雨が××を連れてきた」という文章自体も、ぎりぎり暗黙の了解を守っています。たとえば「雨が冬を連れてきた」といったら、多少こじゃれた言い回しではありますが、なんかどこかできいたことがあるかもな……という感じです。意味がわからないということはありません。しかしこの場合、雨が連れてくるのは「幻の楽団」です。フツーに読んだのじゃ意味がとれません。それで、この詩の意味をつかもうとする読者は、するするといつものように自然に読むのではなく、立ち止まりながら、ひとつひとつの単語が意味するイメージを膨らませながら、いつもとは違う不自然な読み方をすることになります。幻の楽団って、雨音のことかしらん……とかね。しかし、
「雨が文学博士の帽子を都会(まち)にかぶせる。」(「娘と船乗と学生と」ロルカ)
となると、単語の組み合わせがさらに不自然になります。引用部分をちょこっと読んだだけでは、なにがなんだかわからない。実は私にもよくわかりません。わかりませんが、わからないからこそ、この言葉の組み合わせは読者をなんども言葉に立ち戻らせるのです。そして私は、「なんども読者を言葉そのものに立ち戻らせながらメッセージを伝える」ものが詩なのだろう、とひとまず考えています(これは必ずしも定義じゃないです。念のため)。
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註
なんかちっとも「ポエム派宣言」にならず、まるで某「サルレト」になってきたが、この文章の目的はレトリック入門ではない。「ポエム派宣言」の目的は、いわゆる蔑称的な意味での「ポエム」もまた詩であると証明し、「だから私はポエムを書くのだ」と宣言することである(うまくゆくかどーかはこころもとない←笑)。それから、知っている人には説明する必要もないだろうが、「単語の組み合わせがフツーでない」とは、いわゆる「異化」をつくりだすためのひとつの手段である。
引用文は、『比喩表現辞典レトリカ』(白水社/榛谷泰明編集)から引用した。以下の詳細も『レトリカ』による。(横着してすんまへん)
「古代の柵をまたいで/登呂の雨が/幻の楽団を連れてきた」
→『風雪』所収「登呂」より/大畑専著
「雨が文学博士の帽子を都会(まち)にかぶせる。」
→『てあとろ ぶれーべ』所収「娘と船乗と学生と」より
→ガルシア・ロルカ著/大島正訳
(初出:触発する批評/鈴木パキーネ名義で発表)
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ポエム派宣言(ポエム小論)