抒情性の彼方へ/葉leaf
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- アラガイs 
例えば一人称でよくみられる恋愛詩など、具体的な傾向を取り上げてより詳述されたなら初心者にとってはいいお手本となるかもです 。



- Debby 
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=262358&filter=cat&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26cat%3D1

じゃあ、二人称の中に回収すればいいんだな!
という試み。他者や社会と渡り合える重み、獲得出来てますかね?

多分、人称そのものが問題というわけではない気がします。
僕も昔似たようなこと考えてコレ書いたんですが、「本質的な問題の解決じゃないよね」と、自分では思ってます。
それどころか悪化してね?より一層「自己」が前に出てね?恥ずかしくね、この作品?とか思う。
-  
(多くの詩に〝社会と渡り合える重みがない〝のは〝自由に思ったことを「私」の意識の赴くままに書いていく〝ことができる、あるしゅの解放区だからてきがします。
えと、たとえば詩の世界の中でどんだけ街や地球を破壊しようが大量虐殺が起きようが許されるじゃないですか、や、何も詩に限らず、ですが、、なんかそーいうことと裏表だと思うんですよね、極端にゆえば。そーたい主義、むしろ主観しゅぎといった方がいいですが、僕たちは僕たちの中で何をどう思いどう解釈しようが許される。もちろんそれは正しいことだと思います。またリベラル、じゆう、であるとことはとてもとても大事なんだけど、反面、そのことの軽さ、個人の持つ意味や価値の軽さ、最終的に〝それはあなたの意識の問題です〝といって片付けられる危険性もつねに孕んでいるというか。。)
---2012/10/20 04:35追記---
- るか 
ちょっと論点がずれるかも知れませんが、思いつくままに感想的な考えを書いてみます。

・「詩が他者や社会に渡り合う」とは何でしょう。詩にとってそういう時代があったのでしょうか。どうしてそれが、詩の問題なのでしょうか。
・「1人称に回収されない2人称、3人称」とは何でしょう。他者性の問題だとするなら、私は”全て私の世界で起こっている”という限界から出られた方を知りません。
・私の特権化、とは何でしょう。誰にとっても、私は特権的なものではないですか。もし違うなら、かんたんに人の奴隷になれるでしょうし。それのどこがいけないのでしょう。
・抒情性とか、”独善性”なるものに、そもそも何ら問題を感じず、それを避けようとしてきたから現代詩はすっかり下らなくなった、そういう私のような立場からは、何ら響くものがないというのが正直な所です。思想と感情(感性)とが繋がっているからこそ、感性的な表現(芸術)の意義はあるんではないでしょうか。思想なら、散文で表現したらよいのではと感じてしまいますねえ。


---2012/10/18 15:32追記---
・下記の”あなた”の例が成功しているように見えるのは、人の死というテーマがまだかろうじて有している神話的な作用、つまり多くの人の感性の”ツボ”を利用しているからではないんですかねえ。そこでならガード下げる人も多い、っていう。そもそもさ、自説の論拠として、自分の追悼的な詩を再掲するとかって、恥ずかしくないんでしょうかねえ。自分で自分の真意を否定するような行為だし、相手や親族に失礼じゃないんだろうか。そのへんの神経も分からないし。フィクションならたちわるかろうし。なんかなあ。
---2012/10/18 17:11追記---
いや、本気で、瀬尾みたいのがいい仕事していると信じておられることが確認できたのは、私にとって収穫でした。いや、悪気あってのことではなく、たぶん接点がつかみにくくって、こういう調子になってしまうということですね。そこはご了解下さい。
---2012/10/18 17:14追記---
あと、別に争うことじたいが目的で書いているのではないですよ。コミュニケーションですから、あなたの考えが知りたいということですねえ。
- N.K. 
 
作者より:
作品拝読しました。
たぶんこの作品の問題点は、「君」という言葉が抽象的に使われているか、「僕」を指しているにすぎないかのいずれかだと思います。具体的に、実際に存在する他人を頭に思い浮かべて「君」という言葉を使うと、また違ってくるかなあ、という感じです。
例えば僕は、亡くなった友人に対して挽詩を書きましたが、
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=247078
これなんかは実在する「あなた」への呼びかけなので、決して「僕」には回収できない、というか、「僕」が「あなた」に振り回され続けて呻吟している様子がよく分かると思います。
---2012/10/18 16:32追記---

>fake pneumaさん


初めに断わっておきますが、延々と議論するつもりはないです。僕はネットの議論に基本的に生産性を感じません。特に煽りなどの感情的な議論が嫌いです。

詩が他者や社会と渡り合う、というのは、他者や社会からの自己への働きかけに適切に応答する、とでもいいましょうか。あるいは、他者や社会の在り方を十分に理解し、それらを自らの中にまで引用する、または、既に自らの中に含まれてしまっている他者や社会をよく見据えること。それを一番感じる詩集は瀬尾育生の『アンユナイテッド・ネイションズ』ですかね。これは20世紀と21世紀の間に書かれたものですが。特定の時代に起こったものだとも思えませんね。例えば吉野弘の左翼的な詩は社会を扱っているというより、社会によって被害した私を扱っているように僕には思えます。
詩にとってそういうことが問題になるのは、詩が人間の実存を問題にするからです。人間の実存の次元にまで他者や社会が入ってくる、そうなったら詩はそれらを扱わざるを得ないでしょう。
すべて私の世界で起こっている、かどうかは哲学的な立場の問題ですので、そこを争っても不毛でしょう。
私が特権的であるかどうか、というのも些末なロジックの問題だと思われます。はっきり言ってなんとでも言える。
思想は散文で表現すべき、と言い切れるかどうか、これも立場の違いでしょう。詩で思想を書いてみると、詩の方が漠然としているけれどより微妙な思想が書けることに気付くかもしれませんよ。まあそれを思想と呼んでいいのかどうかは別問題ですが。

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