詩の書き方を求めて/岡部淳太郎
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 藤原 実 
- salco 
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- AtoZ
失礼ですが、わたしはあなたの散文を読んで最近内田樹という大学教授がネット上に発表した次の文章を思い出しました。

「批評的定型」というものは残念ながら存在しない。
批評性というのは、ぎりぎりそぎ落とせば、「定型性に対する倦厭」のことだからだ。
だが、このコラムの文章には「定型性に対する倦厭」がない。
たしかに、どんな人間のどんな文章も、それなりの定型にはとらえられてしまうことからは避けられない。
定型から逃げ出そうとすれば、シュールレアリスト的饒舌かランボー的沈黙のどちらかを選ぶしかないと、モーリス・ブランショは言っている。私も同意見である。
ひとは定型から出ることはできない。
だが、定型を嫌うことはできる。
定型的な文章を書いている、そういう文章しか書けない自分に「飽きる」ことはできる。
「飽きる」というのは一種の能力であると私は思っている。
それは自分の生命力が衰えていることを感知するためのたいせつなセンサーである。
「飽きる」ことができないというのは、システムの死が近づいていることに気づいていない病的徴候である。

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