03/19 21:38
川村 透
困ったな。Fiorinaさん
ここでは、僕は「詩のコトバ」に関わるヒトとして発言しようとしてきたつもりでしたが、どうしても僕は、「まちづくり人」、実務者としてFiorinaさんに過剰に反応してしまうようです。佐々さんの言われるように、ルックスの美しい言葉で理想を示そうという試みはいやというほど行われてきました。僕はまちづくりの現場では、詩人の言葉をむしろ封印しています。それは、直感的に結論を言い当ててしまうのを恐れるのと、「詩人の言葉である」という了解が、空疎な美辞麗句かも知れないという偏見を助長しかねないと危惧するからです。僕は出来る限りやぼったく、具体的で、声、に近い肉の響きをまとわりつかせた「生活の言葉」のフィールドワークで、まちを心を景色を歴史をビジョンを語り、語った言葉に責任を持ち行動につなげる場をつくるために動いているのです。
直感的に、ですが、Fiorinaさんのおっしゃることは、多分僕のつかんでいる地平に近いと思う。
>どんな言葉も、その真意を生かしていこうとすれば、「非難」にとどまらず、有効な意見に変えうる
僕も、そう信じています。そして多分僕の経験から言って、そんな真摯な場を創造することが、理想の美しいまちを実現するための「急がば回れ」の近道なんだと思う。僕はいつも、まちづくりワークショップの場でこう言います。「異なった意見のぶつかり合いの中からこそほんとうの合意を育てることが出来るのです」そして、協働と合意形成のプロセスをデザインし、コーディネートする職能が今の社会には求められているのだと信じ、僕はひととひととの間の、消えない炎になってそのかかわりを「ささえるヒト」として立つことを決意したのでした。合意とは、決して多数決とイコールではないのです。むしろ僕の経験からは、真実はしばしば少数者に宿る。例えば、公園づくりのワークショップでの経験ですが、10人の有識者の声をくつがえして響く、たった一人の子どもの声、というものが確かにあります。そしてそれは「合意の風」によって実現させることが出来るのです。その子どもの声を生かすために、さまざまに汗を流すこと、いささかのデメリットがあるにせよ、それは「大人が引き受けるべき責任」としてハラが決まったのでした。