【petit企画の館】/蝶としゃぼん玉[760]
2019 06/15 19:13
ハァモニィベル

では、少し実践的に考えてみようか。

以下のテーマで1本ずつ計二本書いてみてよ。

(A)写実的な詩
(B)心象的な詩


【ヒント】

次の引用文を参考にしてくれ給え。
(いずれも古い文なのは気軽に引用できるというだけで他意はない)。


●――――――――――――〔引用開始〕(※便宜上番号を振った。筆者は異同がある)

【1】 現実の輪廓を模してその真を失ふのが凡庸な芸術家のつねである。これに反して一見現実の形を無視したかのやうに見えながら或は現実を全く変貌してしまひながらもよく現実の精神を捕捉する者こそ真の芸術家である。


【2】 すべての一流の芸術は本質的に皆、若さを持っている。その精神に「若さ」を持たない芸術は、決して真の芸術ではない。特に詩においてそうである。
            〔但し、 本質的な「若さ」を秘めながら 芭蕉は「老」の境地に身を置いてその芸術を創り出した秋・冬の詩人であった。と、春・夏の詩人蕪村を論じる中で対比しながら、しかし蕪村もまた冬の詩人でもあったと続く箇所から引いた文。〕


【3】 〔中国の山河を直に見た日本画家によれば〕支那の南画の山水が決して現実を歪めたものではなく、あれがそのまま正確な写実であることが分るという話であつた。日本の画家が南画に写実を見ず、象徴的な筆法や形のみを学ぶのは誤りだという意味なのである。

【4】 天文学の発達が、月を疱瘡面あばたヅラ醜男ぶおとこにし、天女の住む月宮殿の連想を、荒涼たる没詩情のものに化したことなども、僕等の時代の詩人が、月への思慕エロスを失つたことの一理由であるかも知れない。しかしもつと本質的な原因は、近代に於ける照明科学の進歩が、地上をあまりに明るくしすぎた為である。


【5】 しかし、私は数年前京都の嵐山に住み、雨の日、雲の低く垂れた嵐山や小倉山、保津川の風景に、日本の山水のふるさとを見て呆気にとられたことがあつた。日本画の山水の風景が実在することを納得させられたのであつた。

【6】  「埋火うずみびの/ほかに心はなけれども/向へば見ゆる白鳥の山」
 香川景樹の歌である。日本の昔の文人詩人画家、自然を愛した人達の山を見る心は、概ね、この歌の心のやうなものではなかつたかと思ふ。登る山とは違つてゐた。心象の中の景物であり、見る山であつた。


――――――――――――●〔引用終了〕


(註―― 香川景樹 は、江戸後期の歌人。斬新な歌論を展開したが、保守派に憎まれて「大天狗」と罵倒され排斥された人である。 上記【6】の文章は坂口安吾のもので、その歌には 見られる山 でなく、その人が「見る山」がある、と洞察しているが、香川景樹の背景を踏まえてその歌を味わえば、更にそこには普通の人の「見る山」以上の作者の心象が籠められて映し出されているのがわかる。)


----------------------------
さて、

では、タッコングよろしく頼むよ。
きみの低い鼻を多少は伸ばして頑張ってくれ。

ゆっくりでいいよ。待ってないから。

スレッドへ