2019 05/16 00:03
ハァモニィベル
>今回、俺が投稿した「推薦文」がなんとなく「撰」にちかい
これだな
https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=347254&filter=usr&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D8854
↑
かなり辿々しい作文という印象だけど、書いた本人は自覚できないだろうと思うので冒頭だけ取り上げて、私の感想を言ってみるよ。
まず詩を読むにあたって安心してほしいことがあります。それはよく作者の詩の意図やねらいという読者を脅かし、内容を完璧に理解しなきゃだめなんだ。もっといえば口を開くことすら許されないなどと僕たちの心をちっちゃく萎縮させるつもりはないということなのです
まず、「詩を読むにあたって安心してほしい」というのは、「不安」を抱くような読者を想定しているわけだから、「不安」を抱かない読者は違和感を覚える。
(また、作品に対しつねに謙虚な鑑賞者はいつも不安であるべきだ、と考えている人もいるかもしれない。そういう人も、ここには違和感を持つだろうな)
それについて、「萎縮させるつもりはない」と内訳が示されているので、《萎縮させるつもりのある》書き手が実際にいるか、もしくは、そーゆーのが居ると想定していることが伺える。
ただ、ともかく、論者は、「内容を完璧に理解しなきゃ」ならないという事に批判的・拒絶的な立場だ、
ということがわかる。
後を読むと、この論者は、詩を一義的によむのでなく多様なイメージをよむことや、そうなるようにぽややんと書いてあるものを高く評価する、ということらしい。
以上が伺える。
さて、
私が、上記の論述から受ける違和感はね、
《詩を完璧に理解しなきゃ何も言えない》
という認識を対置して持ち出すことへの違和感だよ。
こんな認識を踏まえて主張された、その裏である《多様性》にも、同じようにやっぱり違和感を感じてしまう。
詩そのもの以前にさ、人間の認識に一般的な正解はない以上、
批評に正解はないんだよ。
それは多様であり得る。でもね、その鋭さと深さには自ずと差があるのも確かだろう。
だから、「萎縮する」というのは、自分の批評(の鋭さや深さ)に自信がない、ということだ。
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タッコングがそうだということではなく、極端な例をあげるよ。
何でもマヨネーズをつけると美味だと思う少年とかたまにいるけれど、
そういう少年は、そういう味覚なんだから、「僕は、マヨネーズが最高だ」と自信をもって言えばよい。
ただし、それが世界一だ、お前たちは違う、と言えばオカシイ話になるんでさ、
僕は好きなんだ、と言い張る限りは誰も、反論できない事だ。
世界ソムリエコンクール優勝のような人は、その少年を鼻で笑うかもしれないが
その人はその人であり、その少年はその少年だろう。
少年のほうも、マヨネーズだらけの口でニヤと笑い返せはいいだけのことだ。
本来、一流のソムリエなら、お客の味覚を尊重して、それに合わせたワインを模索するものだ。鼻で笑うのは二流ゆえのプライドにすぎない。
マヨっ子少年のほうも、メーカーの違うマヨネーズを食べたとき、その味が区別できないようなら初めて萎縮すればいい。
というわけ、で
冒頭部分だけで相当な違和感をおぼえたよ、というのがわたしの感想だ。
以上です。
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