2018 05/09 00:24
ハァモニィベル
「祈る」っていうのは、
《信じて待つ》ということだ。だから、《行動する》範囲の外にある
とも言える。
いまは、自分の行動範囲の外にある。それでも、諦めてはいない。
だから、祈るんだ。
漁師が、嵐が治まるのを祈るのと同じだ。
寝て起きたら、家の前に魚が大量に積んでありますように、とは祈らない。
自力の命で海と戦える状態にせめてなりますように、と
精一杯行動できる時の訪れを祈るのだ。
ただ補助線を引けば解ける問題を前にして、それを引かず
講じる手段があるのに、跪いて手を組み合わせているのは
ただの欲ぶかい欺瞞だろう。
だが、結果的に無意味な線を一所懸命、いっぱい書き込んでしまって、手応えも得られずにその
無意味さに気づいて立ち止まる。けどその自分の真心までは否定できない。でももうそれ以上動けない。
そんな風に行動が先に来た後に、祈りがやってくるような場合もあるだろう。
または、
結局のところ最後は、或る結果になるのだが(つまり、その時点の常識ではとても考えられない結果
なのだが)そうなることは(その時には)判らず、思えず、
相手や周りがどうにもこうにも無知なままに酷く常識的に抵抗してみせる場合もある。
これは、けっこう歴史によくある現象のケースではあるにしても、無知の抵抗というのは、
どの個人の内部にも、社会全体にも、ちょくちょく沸き起こる、ちょっとした付きものである。
そうした諸々のケースの中に、
実際に立っていながら、
《信じて待つ》
というのは、死を待っているのと心境は変わらない。
それでも、諦めたりせず、信じていられるのは
じぶんがまだ、信じているものを裏切らずに生きているからだな。
その意味で、
信じている主体と、信じられている客体の
両者の質によって、結果の質もかわるだけである(と哀しく待ちながら)
安らぎが在る筈の場所に、安らぎが在ることを
まだ固く信じているから、今も歩いているんだと(私は思っている)。