【petit企画の館】/蝶としゃぼん玉[625]
2018 03/19 14:57
ハァモニィベル

Thanks a lot.

読めない人というのはいつでも何処でもいるものなのでしょう。

なので、鋭く繊細な批評が現れないと、意味のあるものも、
 
 《無意味の怪獣》として、無明無知のミサイル砲火を浴びることに

なりかねません。哀れというほかありません。


 例えば

 ウルトラマンの決め技であるスペシウム光線のポーズを想起されれば、
 愚かしい誤解は生じないでしょう。

 こんなことをダメ押ししなければならないのは哀しいことです。


 なんだそんなことか、

 とひとを見下すことしかしないひとは、そういう人がいちばん問題児
のような気がします。

 そういうお方は、とうぜん、<オプトジェネティクス>ということにまで
思い至らないのでしょうから。


 こんな風に書くと、見下すことしかしない人は、こんどは、じぶんが
「見下されている」と受け取りかねませんが、そんな誤解や曲解も困ります。



もちろん、
いいとかわるいということでは、無論ありません。
(人間は皆、どこかに哀しいところを持っています)

それに、
何か学術的な知見が高級だなどといっているのでもありません(当たり前ですが)。
また、コードで解読しあって悦に入る暗号趣味とも関係ありません。(念のため)

要するに、知識もまた自分のイメージのなかの一つであり、知識がなくても感受性に
溢れたひとなら
自ずとイメージが豊富であり、それが無限といっていいほど縦横に走るものです。
そのイメージを結ぶ力が不足しているとしたら、例えばひとつの具体的な現れとし
て対話ができない、といった問題児だろうな、というそういう趣旨(個人的感想)です。

何か読んで、そこに何か美しいイメージを結べないようでは
私のような人間から見ると(ではありますが、あくまでも。それは何となく)
哀しい気がする、という、それだけです。
 註;(不味い料理を食べることは想定してませんが、仮に激マズ料理でも、
  調理法がマズイのか、素材の味は悪くないのか、などの微細な印象が可能)

受け手の方に、イメージを結ぶ力の比重が高く求められる、飛躍の多い詩的表現
においては特にそう言えるんじゃないかな、と素朴に思うからです。

TV番組のように、イメージを結ばせる力、発信側の力に比重が高いはずの分野で
最近は無残な状態が溢れ始めた時代なので、もはや、街を破壊するのはタッコングで
もないし、破壊される街にも大した感受性はないのかも知れませんが…。


それが、そうであるのか違うのかは、ご自分が御じぶんに訊けばよくわかること、それだけのことです)


*(おわり)
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