2017 09/28 17:30
ハァモニィベル
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「酷評」というのは、何でしょうね? 考えてみて下さい。
否定的な評価に対して、受け取った側のインパクトの強さから、その度合いを「酷」だと評価しているんでしょうかね。
だとすれば、「酷」なのは、批評そのものの方なのか、批評された方の心裡反応なのか、あいまいにせずに、よく考えてみたいところです。
酷評などと言って片付けてしまうのは批評された内容のほうを理解していない証拠だ、とわたしはそれに対しても「酷評」しなければなりません。
批評がハズレてますよ、と言えない恨みが「酷評」という情緒的な反応なのだろうか、そんなことを思いますが、どうなんでしょう。
単純に、
「この作品は酷すぎますよ」
と言った場合、まさに文字通り《酷評》という気がしますが、
本当にそうでしょうか。
その作品が本当に酷すぎる場合には、かなり精確な評言といえます。
これを、
酷い作品 に対して 「酷すぎる作品だ」 というのが
本当の《酷評》なんですよ。
普通の作品 > 酷い作品 > 酷すぎる作品
というレベルの違いが精確に捉えられていないボンクラな批評ということになります。
私の批評を「酷評」というなら、そういう人と私との間で、どちらの批評力が精確さを保持しているか、よく吟味してから、ものを言ってほしいと思いますね。
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ま、そんなに大げさに騒ぎませんけどね(笑)。
ただ、
「酷評」だと傷つく人というのは、
自分では、フツーの作品だと思っているのを、
わたしに、ヒドイ作品である、と言われたと感じてるわけなんだろうな
と思います。(どっちが精確なんでしょうね)
でも
私も、良くないものを良いと言って自分の味覚の信用を落とすようなことは出来ないわけです。(私の立場は、読書人としてみたときの評価なので、一部のマニアに向けて書いているひとは気にしなくていいでしょう)
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まあ、此処では、以前、るる●●さんも、私によく否定的な評価を
受けてたでしょ。でも、わたしは、るる●●さんを褒めたときもあるんですよ。
メビウスで、まえに、建築家ガウディをテーマにして皆で創作競合していたとき、るる●●さんが幼い頃、おじいさんとお風呂に入ったときのエピソードを書いていたんだけど、それは文章はそれほどではなかったけれど、おじいさんが「風呂場に 魚や蟹の形のタイルを入れ」たりして、見える景色をガウディと称する。そんな思い出のシーンが出てくるものがあった。私は、そのモチーフだけは褒めたことがあります。
面白いことに、「酷評」を受けたと思って意気消沈してしまうような人は、
否定されてもピンとこないし、褒められても、やはりピンとこない様子なんで、
それは、誰にもどうしようもないのかも知れないけれども、
何を言われても、
ガッカリしたり有頂天になったりする必要はないと思います。
(END)