【petit企画の館】/蝶としゃぼん玉[278]
2016 12/28 06:13
ハァモニィベル

長庚さんへ

今回は、むしろ「説明書き」(それはその人の見解でけっこうなんですが)が要るわけです。
それは、はい説明ですよという説明をしないで事情を察知させるような仕方での(説明)も含めての意味ですが、
「説明書き」こそが必要なのかもな、というのが今回のテーマの趣旨からするとありますね。

「理解せずとも感じる」云々という

理想やポリシーだけでは、(そこに何が書いてあってもオナジコトですので)

自分の作風のなかで巧く(美味く)処理して頂ければ幸いです。



「ダライラマ」という単語一語だけだと、仰るような
>オウムや地下鉄サリン事件を思い浮かべるという「私よりも歴史に詳しいかた」がいらっしゃるかもしれないので、…直接書くのが怖かったです。
というような、馬鹿げた反応や情けない恐怖があるかもしれないので、
だから、書き手として、ダライラマをどう位置付けて捉えているのか、がわかるように、ある程度の「説明書き」が必要となるわけです。

(御作品は、やや補訂されましたね)

解説的な補訂が加わると、たぶん
「説明するなら小説であって、詩でかく必要はない」
という批判が、硬直気味の人からは出てきそうですね。

その場合には、吉野弘の「I was borm.」について考えてもらいましょう。




ダライ・ラマ13世が出てきたついでに、

1900年7月、チベット入境を果たした【河口慧海】も出しておきましょう。

 慧海はなぜチベットへ行こうと思ったのだろう。
 漢訳の経典を和訳するのに、テキストに異同があり、どれが正しいのか分からない。本家インドでも梵語テキストは失われてしまっており、とくに、大乗経典は、チベット経典を辿るほかない。当時欧米の学者の説では、チベット経典のほうが漢訳より文法的にも字義的にも正確だともいう。――そこで、

これを研究するにはぜひチベットに行ってチベット語をやらなければならぬという考えが起りました。この考えがつまり入蔵を思い立った原因でありまして、ちょうどその時が明治二十六年の四月で・・・

と、その(『チベット旅行記』)には書かれている。




チベットの歴史や、河口慧海の探検行は、
ちょうど田沼意次の頃の、蝦夷地(北海道)の歴史や、そこをロシアに向かって探検していった人々のことを私に思い出させます。



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