【petit企画の館】/蝶としゃぼん玉[247]
2016 10/18 20:10
ハァモニィベル



世の中に、「対話」ならぬ「対詩」というのがあるらしくて、
先手のA氏が詩を書いたら、後手のB氏がその返詩を書いて、
また先手が書く、これを対話する様に繰り返す、ということらしいのですが、

B・ディラン「風に吹かれて」に、仮に犀星が対詩をしたら・・・
という、そんな感じで投げてみた課題でした。



その3「夜までは」は、蛾兆さんが反応してくれるだろう分野だと
考えてのチョイスでしたが、とくに課題作品に限定する意図ではないので、
『柳多留』でまた書いていただき、嬉しかったです。

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柄井川柳 選 の『誹風柳多留』は、俳諧のマンネリ化した「雅言」の世界へ俗語で機微を穿つ
そんなロックな精神を裏で漂わせる(エロに限らない)風刺と諧謔の原典ですが、

(エロに限って)作品を集めたものに、『誹風末摘花』というのがあります。
(四編あり、初編のみ星運堂花屋久次郎という俳人の編集であとは不明)

女房の拗ねたは足を縄にない

 (ムクレタ奥さんが寝床で頑として脚を開かない様子)

また、次のような
一休禅師の作だという漢詩(本当なら室町時代)も、
『一休咄』(但しこれは江戸時代に刊)の中にあったりして、
ある意味で、エロスというのは融通無碍な知性に通じているわけです。


(書き下し文)

元来口有リサラ更ニモノ言フコト無シ
百億ノ毛頭丸痕ヲ擁ス
一切ノ衆生 途に迷フ所
十方ノ諸仏 出ヅルの門

二行目は、数えきれぬほどの毛によって丸い穴が隠されている、という意味。
これに顔をしかめたり、ニンマリしたりする者は全然悟りが足りない
というわけでしょう。
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その2. にある犀星の詩にたいして、
石村さんも書いてくれたので嬉しかったです。

「その2」は、「その3」と同じく、女性目線にして元々の作品が書かれて
いるのが、私には面白い点でした。

課題を投げて、パスティーシュと、通常の「訳」と、書かれたものと、…etc,それぞれに見てみた時、
そうして出来たものが、どれだけパクリにならず、オリジナルに昇華されているか、
また、どんな感じだと、パクリになるか、その辺を考えるキッカケになるかな、
とも思いました。パクリ感が出るのは作品と作者が個性的に自立してないからで、(恐らく、力の劣る者が、元作品の表現や詩情に引きずられた作品はパクリ感満載になる―そういうのは読んでいて不快か、二流感だけが漂っていながら真似したところだけが整っている)

石村さんの「その2」へアプローチした作品では、作者らしくパスティーシュされているので、
日本語作品から日本語作品へ、または、わかりやすい作品を刺激元にした場合は、
適切なアプローチだと思いました。

普通に言う意味の「翻訳」ならば、原典を汲み取って沿わねばならず、
原典8割:自分2割強

パスティーシュなりインスパイアならば、原典のパクリは恥ずべきものとして避けたいので、
原典2割弱:自分8割

で書きたい気が(私個人は)します。

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因みに、「その1」については、
石川啄木が書いてくれました。

  わが髭(ヒゲ)の下向く癖が憤(いきど)おろし

というのは、無論冗談で、この短歌は、このあと
「この頃憎き男に似たれば」と続いて終わるのですが、

1909年(明42)4月11日。この日、金田一京介と下宿を出て、花見を楽しんだあと、
別れてから、与謝野鉄幹・晶子夫妻の家で行われていた歌会に出た啄木は、

例のごとく題を出して歌をつくる。みんなで十三人だ。選の済んだのは九時頃だったろう。予はこのごろ真面目に歌などを作る気になれないから、相変わらずへなぶってやった。

と、このときの心境を、彼の『ローマ字日記』に記しました。

「へなぶる」というアプローチも、書手によっては、『柳多留』的でなかなか面白い。
と思います。


(わたしも、犀星のどれかで、書いてみようと思いました)
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