詩ヌマデアイ詩テ[682]
2016 05/27 07:45
黒髪

沈黙する詩行参加

「沈黙の判断」

沈黙には嘘なものとそうでないものがある。沈黙の中では、人は自らのみの思考をするのであり、意見表明のためにと
一生懸命に、励む。分かるか、虎よ。人の畏れは、力強いものなのだぞ。
心の中の言葉を隠し通す沈黙は嘘の沈黙であり、心の中に言うべき言葉が見つからない場合のことを嘘でない沈黙と言うだろう。
いつだってなんにだって、嘘つきは力があり、正直者は騙される。
そしてその区別が大事であるのは、嘘と正直が、混乱しているからなのだ。ある場合は嘘は効力があり、正直は力がない。
襲い襲われる時、沈黙が大きくかかわる。行動に移すことは、電光石火であったりもする。居合いだ。
意味のある沈黙は全て嘘である。沈黙するときにだけ嘘つきは輝き出し、沈黙するときにだけ正直者は失敗する。
つまり沈黙とは世界の転換である。沈黙を尊び、他人に話さない。なぜ話さないのか?それは、嘘つきが内省の中で自己を改め、
正直者が自らの限界を知り越えようとするということなのだからだ。お互いを受け入れないときにそうなる。嘘つきと正直者が、
一つの物事に一緒に取り組もうとしたとき、嘘つきは全くきれいな正直者を見て、正直者は羽目を外すことが嘘のないことを知る。
つまり嘘つきにとっては沈黙ほど大きな修業はなく、正直者には、沈黙はただの当り前なことだ。
正直者にとっては、新しい世界を夢見て、それを知っている嘘つきに習うことが出来て、嘘つきはやすやすとつける嘘のことを知る。
ここで言う嘘つきの嘘は、人をだますための嘘ではない。むしろ自分を──。
沈黙は全ての人に問うている。嘘を話さず、正直な言葉を探ることを。
嘘や正直と言った心のあり方に、それら二つの心の働きに、敏感であることだ。贖罪も懺悔も、沈黙の中心部から、
周りを温めるようにして、穏やかさを泣かせていくだろう。
心と現象は、お互いを必要としている。嘘と正直はちょっとしたいきさつの故のものである。
代理人の責は重く、皆で分担せねばならない。そして、僕は僕の中の嘘を、どこかへ向けて、寧ろ自分に向けて、
輝きの中に放り込みたい。すると誰かを喜ばせられるだろうか。僕は偽善者として嘘ばかり抱えてきた。
嘘を言わざるを得ないことが、僕の正直であり、他人の癇に障る憎しみの否定が、知り合った多くの人が指摘したところから、
許されざる行動への誘惑を断ち切らねばならない、僕の懺悔である。
悲しいということは、嬉しいということが乗り越えなければならないことだ。
怒りということは、現実と心情の両方に関わり、多くの怒りは自分だけの気持ちでなく、希望への祈りを含んでいる。許せないとして。
許すと許せないがお互いに顔を合わせたとき、きっと沈黙の後に何かが輝き出して、本当の気持ちがわかるだろう。
ねえ、聞いていてよ、沈黙した正直者のあなた。僕はあなたの徳をうらやましく思うけど、あなたの心が広いから──とてつもなく
──荷物を背負ってみるよ。少しでも力がついたから、少しでも知ったから。批判は当たっているようだったんだ。
そう、せめて、あなたのことを忘れない。
僕の身体の細胞も、頭の働きも、みんなあつかましいものかもしれない。
詩が正直者のためにあり、しかもその詩が嘘でできているなら、僕は詩と相性がいい。
詩が嘘つきのためにあり、しかもその詩が正直でできているなら、あらゆる子供が詩の天才であるだろう。詩は僕と子供のためにある。
この通りに全ての詩が見つめている目は悲しそうだったり嬉しそうだったりする。透明な瞳。
あつかましさを持ってもう三十数年が過ぎた。
ふてぶてしく生きていくのだと思った子供のころのことを、今なぜか思い出す。一粒の米くらいの希望を、心の中に持っている。
きっといつか、きっと誰かが、この短い生の中で、否定ばかりしないだろう。僕にとっての全ての幻を、
完全な形で僕自身が理解できるだろう。
夕方、影が差している。僕はそれを見る。それは僕の一部だ、決してまやかしなどではない。結局のところ、倫理的であるという
ことは、個人によって違う意味のものなのである。倒れて砂を噛んだら、また自分の沈黙の中で、耳鳴りの中で思考するのだ。
立ち上がれ汝、虎である汝。
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