2016 03/17 20:10
澤あづさ
※お題バトルの流れぶった切って通ります失礼。
※渚鳥さんこんばんは。いつか文学極道でもお会いできますように!
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某のスレにくらさんのカキコがあったので(投禁でレスできないから)ここに雑感を書く。
http://mb2.jp/_poem/305.html-17
▼先立って。
※文中に出てくる「猿が撮った写真の著作権を巡って裁判」はこれだな。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%81%AE%E8%87%AA%E6%92%AE%E3%82%8A
※このニュースが話題になった当時、「このサルがその写真家のペットだった場合、著作権はどうなるんだろ?」って考えたけど、結局どうなんだろ。日本の法律上、ペットは所有「物」だから、「写真家が自分の道具を利用して撮影した→著作権はサルの所有者である写真家に帰属する」ってことになるんだろうか。
▼以下雑感。
なるほど評価と読解は別の行為だ。それはあきらかなことなんだけれども、わたしは「文芸に関して、読解を公表するという行為は『高く評価した』という意思表示に等しい。」と確信している。なにせ読解したということは、その作品に「読解する価値」を認めたということだから。
その読解の内容が、作品の表面的な内容に対して否定的なものだったとしても、「読解する価値を認められたので読解された。」という事実は変わらない。賛否のいずれにせよ「人に関心を持たれる」こと、これが文芸のほとんど唯一の価値と言えるんじゃなかろうか。
もちろん、だからと言って、わたしが「読解を公表していない作品を低く評価している」わけではない。(なにせ読解は、うかうか公開できるものでない。)評価と読解は、あきらかにまったく別の行為だ。こういう所信を語弊なしに説明するのって難しいね。