詩ヌマデアイ詩テ[139]
2016 03/17 11:31
澤あづさ

ベルさんへ。

▼最後のお話について。

>ま、これは私の勝手な印象批評です。(これは、わたしが澤さんを斬る目的じゃなくて、澤さんが他の人に斬られないよう、敢えて砂を投げてみました。これだけで、30倍強化されるのが澤さんだろうと、チャン・ツィイーに幻想しているが故です。

そうですね、ネット詩壇でわたしの批評は(盲目的感情論の粘着や2ちゃんを除き)ほとんど斬られたことがありません。それは文学的に、非常に不健全なことです。対してたとえば、わたしが入沢康夫氏についてあほな誤解をつぶやいたときには、ご本人から反論がありました。さすが「現代詩」は文学的に成熟していると感服したものです。

「批評を批評の対象にできない」というその文学的な不健全は、文学極道に顕著です。その文学極道に感化された派閥(ほとんど若者)が、一時期のプロ詩に一方的に持ち込んでいたこともあり、その時期のプロ詩はひどいありさまでした。「こんな無根拠な罵倒ごっこが、だれのなんの役に立つのだろう。」以外の感想がなにひとつ出てこないような。

わたしはそうした風潮を、ブログ等で長らく批判していましたが、ネット詩が自明として強いられる「書き手同士の交流の域を出ない」という現実を鑑みれば、文学極道のモットーが限界だろうと考えています。であればこそ、文学極道を書き手として訪問する際には、菊西夕座氏のようなレッサーを目指したいと思います。文学極道で、氏以上に生産的なレッサーを、わたしは見たことがありません。



▼以下、最初から。

>テクスト至上主義は、私の言う「バナナ」を、食品だと読解してしまうんでしょうか? そうなると興味深くなってきます。。。(バナナと表現されたこのテクストに対して)生産物=制作物として高次に括って認識するのではないわけですね。

テクスト至上主義ではなく、国語のルールそして詐術への対策です。議は論理で書かれなければならない形式ですから、文章を「書かれている通り、論理的に」理解する能力がない者に、その先への勝手な飛躍は許されません。比喩だと説明されていない文面に対して、勝手な想定を当て込むことは「曲解」であり、誤読よりひどいものです。

また、人に話をするのに、必要最低限の情報を述べず、あと付けの理屈で相手を責める行為は、「詐欺」に相違ありません。カルト宗教等の洗脳に典型的な手口でもあり、世間的に許されないことです。詐欺師の見極めも(テクスト至上主義とは関係なく本来)批評家の重要な役割でしょう。

詩において曲解や詐術が起こりやすいのは、その文章が論理的に正しくなく、精確な情報でないからです。それは詩が「言語芸術」だから、言語の特性を利用しているからとしか、判断しようがありません。批評は詩であってはならず、あくまで「再現性のある精確な情報」でなければなりません。。。と断言すると「じゃあデリダ先生のあのエクリチュールはなんだよ」って話になってしまうのですが!

>また、「みにくいアヒルの子」だと周囲から盲目的にみなされているものを、正確に、それは《白鳥の子》であると、看破するわけでもない、ということになるのでしょうか。

これも上記の「詐欺」に留意して判断する必要があるでしょう。

>掘り出し物より、値段の確定したものを追うとなると、その至上主義の素顔は詩情ならぬ市場功利主義の匂いがしてしまう気もしました。

わたしはネット詩などを批評するより、歴史的名著の再評価・再読解に挑むほうが、よほど勇気のあることだと思います。なにせネット詩と違い、読者が成熟しているので、自分の身の丈に合わないような反論ががっしがし来るでしょうから。

ちなみにわたしがメビで発掘した掘り出し物のひとつに、文極の2012年最優秀抒情詩賞の紅月さんという人がいます。わたしはかれが低評価にやさぐれていた2010年のころから、かれの詩に一目惚れしてずっと追っていたので、その価値が文極で確定したとき本当にうれしかったですね。この感覚は、評者でなく読者として、「人間感情」として大切にしたいと思っています。
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