【期間限定~9月15日】23歳以上の人の『夏休み読書感想文』(原稿用紙3枚)[12]
2015 09/15 23:47
深水遊脚

『裾花 』杉本真維子 著

 ブログかツイッターか忘れたけれど、夏休みの読書感想文のアドバイスに、詩集を選ぼうというものがあった。どれか一篇だけ選んでその感想を書けばよいのだという。それがものすごく短時間で終わるよ、だとか、午後にはプールにでも行って泳ぎなよ、などと年齢のバレる余計なお世話までつけて。散文よりも文字の量が少ないということは、語るための足場もそれだけ少ない。詩の感想は私は難しいと思う。でも語り尽くせないほどの思い入れがあるなら、強烈な何かを唯一篇から受け取ったなら、本当に簡単に書けてしまうかもしれない。

 杉本真維子さんのこの詩集を手に取る子供がいたら、その子が締め切りが迫るなか幸運にもそんな一篇に出会えるとしたら何だろう、そう考えて詩集のページをめくった。少しずつ積もるもの、不意に突き抜けて背後で音を鳴らすもの、様々に感じた。思い入れという感覚ではないから訥々と書き記すしかないけれど。精神も身体も、存在そのものが不安定で不穏。うっすらとそんなことを感じるのだ。読書感想文指南も午後のプールも、そんな自分を微塵も疑わない存在たちを彼方に感じる頃、詩に入って行けるのかもしれない。

 拍手という詩の、ひとはふっくらと一人である、という言葉からはむしろ「一人」という状態の底の深さを、幾通りにも感じるのだ。ふっくらと、の語感はやさしい。でも内部の壊れた声、回数制限と博士の注意深い指示は、それが危険なものだということを伝えている。この詩のあなたと私の曖昧さは、目は空をうつしきれず 大空が目をうつし という言葉と呼応していて、主体、眼差しが「一人」のなかにも幾重にもあることを、ごく自然なこととして受け入れそうになる。

 道祖神という詩の、魂の壮絶な喰らい合いは身体を突き抜けるのを感じたもののひとつだった。ただ単に喰うだけでなく、「おまえのため」という他者を自身の存在理由とする狡猾なやさしさだったり、供え物を疑う やせたこころを 犬が喰う という言葉が示すような猜疑心を美味として求める衝動だったり、喰うことの罪深さの描写に気圧された。実際、魂のやり取りというものは現世でもそのようなものかもしれない。

 眠る女たちという詩の最後の2行、隈なく点検し、明日になったら男たちに かえしてやる という部分は、返されるのはおそらく脱け殻だろうということ、脱け殻の所有を男たちは望んでいるということ、それが型になっていることを思った。会話とも孤独ともつかない女たち相互の関係と距離、そして実際に身体が発する微かな鼾、寝返りなどは脱け殻ではない本当の姿で、それを暴きたてたり恥をかかせたりすることなく、そのものとして受け入れればいいのかもしれない。それが出来たところで「女たち」というのを男たちは所有できない。結界のなかの女たちの精神のありようを結界越しに見ているような不思議な感覚で読んだ。

 私の足場というのも心許ない。言葉にしてみてその不安から逃れられない詩集との出会いを喜びたい。
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