○現代詩フォーラム短歌部○[201]
2005 04/25 23:18
こもん

ど〜れ〜!

はいいろの少女は少女の十本の指ですくえる都会で生きる

「すくえる」(掬える/救える/巣食える)は、読みが何かひとつの方向に固着してしまうことを柔らかく解してくれていて、わたしも読みのいろんな方向に誘われました。そのいちいちをここに書くことはしないけれど、「はいいろの」というのがそのどれにおいてもとても効果的に働いていたように思います。「少女は少女の十本の」という部分は、わたしはとても好きで、本木さんも「二人の少女がいるような錯覚」と表現されていますが、この歌を通して目で追ったときに、視覚的にも「少女は少女の十本の」という表記はとても魅惑的に思えます。
「読み」を残してくれているということが、とてもこの歌を魅力的にしていると思います。

(余談ですが、以前うちの姉のひとりが、どんな文脈だったかは忘れてしまったけれど、「どんなふうにも読めるってことはどんなふうにも読めないってことで、そういう途方もなさはたいてい良い方向なんてもってない」みたいなことを言ったことがあって、当時はふーんなんて聞き流してたつもりだったけど、けっこう頭に残ってたりしてます。そのとき姉は否定的なニュアンスを込めていたけど、わたしはどこかそれを肯定したい気持ちがあって、途方もなさというのか、そういうのもよいよいと思ったりするときがあります。)

#感想に終始してるような感じがありますね。まだどう書いてよいものか掴みかねてます。何回か書いていくと型みたいなのが出来あがっていくものなのかな…。ゆるりとやります。まったく余談になっちゃいますが、ドコモがポケベルサービスを終了するみたいですねえ。偶然にも先週、うちの学校の経済の先生が「俺のポケベル列伝」なる大学時代の思い出話を熱く語っていたので、気になったりしました。一首です。「ポケベルを知らない子らにポケベルのネタで教える経済理論」。がんばれ先生!先生の授業はわかりやすいぞ!!
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