06/04 05:19
ワタナbシンゴ
午睡機械さん(なんかこう呼ぶのよそよそしい気がするけど、午睡ちゃんじゃ変だしね・笑)
うーむ。再掲示がどうのこうのの事情はよくわからないけれども、
>一番の重心は、再掲時に新たに追加された、TAKEさんの一連の作品あるいは文章の賛美の部分でしょう。
というよりは、むしろそれらの作品を通してFiorinaさんが体験した
「詩的時間の蓄積」が述べられていることが、文章の主眼で
ぼくが受け取った、「詩的時間の蓄積」の「詩的」という部分は
午睡さんが受け取ったようなポエジーの話とはずれがあると感じました。
そして、午睡さんの批評の感想としては、Fiorinaさんの批評について、ポエジーを切り口にして読むことは
読めないこともないけれど、ぼくにとっては、説得力がなかった。
もちろん、あったというひともいると思うし、ひとそれぞれといってしまえばそれまでだけど
>あの文章をぼくが恣意的に読み替えて(=自分の問題にしたい文脈に引き付けて)批判しているというご指摘は、逆にあの文章は恣意的に読み替えられうるということを追認しているだけに過ぎないと思います。ぼくに読み替えられるなら他の誰かにもそう読める可能性があるということです。特に、詩に、あるいはわれわれに関係のないひとたちにとっては、なおさらでしょう。
という問いに対しては、
>しかしいまだ明らかでないのは、「詩的時間」と、「そうでない時間」の差異だ
という午睡さんの問題提起(視点提示)の説得力を、
ぼくが午睡さんの批評文から感じられなかった、ということで述べています。
Fiorinaさんのいう詩的という言葉を、ぼくは午睡さんのように受け取れなかった。
午睡さんのように受け取れる可能性は少ないとはいえないが、
バランスとして、かなりの確率でそう読まれる程のことではない、と思うので
慎重に考えて、ポエジーというひとつの切り口だけで語ってしまうには、ちょっと強引かなという感想でした。
ぼくは、Fiorinaさんが感銘を受けた作品に同じような感銘を受けていないので
Fiorinaさんの真の批評文が待たれるところですが(批評の力でその作品に対する感銘の手がかりを得たい)
少なくとも、Fiorinaさんは「詩的」なことに賭けてるんじゃないかな。
ぼくは、そこまで「詩的」なことに賭けていないから「詩的」とは呼ばないけど
「ブルース的時間の蓄積」となら、同じような意味で使うと思う。
でも、ぼくが「ブルース的時間の蓄積」というときに
擦り切れた「ブルース」や「ブルース的」なことをマニアに語っているのではなく
むしろそういうものを、自分が動かされたブルースの体験を通して撃ちたいのであって
「すべてのものにブルースが宿る」と思っているその意味を正確に伝えたいと思う。
そしてそれは、Fiorinaさんが詩的なものでしか現せないのと同じように、
ぼくにとっては、ブルースをやることでしか現せない。
だから、マニアなポエジーを否定するところは、午睡さんの意見とは同じなのだけれども、
違うところは、Fiorinaさんの「詩的」(ぼくにとってはブルース的)の解釈を
午睡さん的な視点よりも、Fiorinaさん側の感覚で読んだんだ、ということです。
おそらく、その真偽は、Fiorinaさんの今後の批評で明らかにされるだろうし
その姿でしか明らかにはならない。
ぼくは、肯定的なものにこそ、批評(批評に限ったことじゃないけど)の真髄があると思うんだ。
自分がout of 眼中(否定的)に思うものなど、ほうっておけばいいと思う。
音楽(恋愛)でいえばさ、たとえば、ゆず(ひろみ)はこういうところが面白くないとか、くるり(みか)はこういうところがつまんないとか
そんな自分が惹かれていないものを語る暇があったら、
ゆず(ひろみ)やくるり(みか)を引き合いに出すことなく、ジュニアウェルズ(スーザン)の素晴らしさをぼくは語りたいし、
サニーボーイ(たまこ)のこういうところはジュニアウェルズ(スーザン)も至らないけど、
明快なセクシーさは圧倒的なんだ、とかさ。(スーザンって誰だよ・笑)
自分が、本当に動かされたものを批評する姿勢で、
自分が真に肯定的に動かされたものを語っていれば
out of 眼中(否定的)なものなどわざわざ語らなくても、お釣りがくるくらい
読み手は、ほんものを見る選択眼を持っていくのだと思うよ。
out of 眼中(否定的)なものに時間を割いて、ひとの心が動くくらいならば
自分が信じる、肯定するものの強度で、ひとの心が動いてくれればとぼくは思う。
もしひとの心が動かなければ、それは自分のそのものに対する肯定的な強度が足りないからだと。
肯定することとは、厳しい過程を経てたどり着くものだと思うんだ。(たとえば恋愛なんかを考えるとわかりやすいよね)
否定がいけないとかいう次元の話ではなくてね。
やっぱり、愛だよ、愛。(対象に対する愛があってはじめて、否定も肯定もできる)
自分を動かすものも、結果的にひとが動かされるものも
愛がなくてはだめなのら(笑)
おいらは、愛じゃなくてずっとエロばかりだからよくわかる(笑)
どんなに言いたいことがあっても、そこまでまだ愛せない作品、愛さない人を語ることは
とがってしまうし、まず愛のない状態の自分の眼を疑ってしまうから
慎重であるべきだと思うんだ。
とにかく、これらのやりとりを経て、Fiorinaさんが書かれる新たな文章が
一段と濃度の濃いものになって、ぼくらの心をとらえることになれば、
みんながうれしい、とぼくは思っています。
現代詩フォーラムに参加するひとりとして、そのような場所であって欲しい、そうありたいとも思っています。