感想スレ[248]
06/03 12:15
ワタナbシンゴ

Fiorinaさんの
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=13378
を受けて上文を批評した午睡さんの
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=13450&from=menu_d.php?start=30
と、おそらく午睡さんの反応の仕方の焦点のずれを指摘したと思われるTAKEさんの
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=13471&from=menu_d.php
を読みました。

率直な感想としては、たぶん午睡さんは自身の問題意識として大きいポエジーの話に
かなり強引に引き付けて、Fiorinaさんの文章を解釈してしまっているな、
という感じを受けました。
純粋にポエジーについての批評としては、うんうん、とうなずけるけれども
その題材にFiorinaさんの文章を使ったことは、
ちょっと素材として適切じゃないんじゃないかなと。

>しかしいまだ明らかでないのは、「詩的時間」と、「そうでない時間」の差異だ

この午睡さんのFiorinaさんに対する一番重要な問題提示は、
ポエジーを念頭に置いているからこそ生まれた問いかけで
Fiorinaさんが述べている文章の主眼は、平たくいえば
「時間をかけないと身につかない感覚がある」という、えらく当たり前のことだと思う。
(お手軽に自分の感情をマスターベーションする書き手読み手に対する警句ともとれるが)
Fiorinaさんは詩を文学のジャンルという意味で用いていないようだけど
まあ何でもいいや、うまい鮨に詩を感じても、小野のゴールシーンに詩を感じても。
たとえば、鮨づくりを、サッカーを長年厳しく継続している一流のひとたちは(だらだら時間だけ長くやっているだけのひとは別よ)
Fiorinaさんがここで「詩的時間の蓄積」と呼ぶものと同じことをやっているだろうし
鮨が好きで食い続けているひと、サッカーが好きで見続けている人は
やはり、より広く深い味わいを得ることができることも確かだと思う。
(これがジャンルに閉塞したオタク的なものに行きつくことがある、というのもまた難しいところだけれども)
(ポエジーの話も、その辺のことをついたという意味では、ナットクなんだけど、Fiorinaさんの文章の主眼はそこではないと思うんだ)
だからこそ、そういうひとたちが為す事に「詩」を感じることがあるとも思うし、
Fiorinaさんが文中で「詩」と呼ぶのは、Fiorinaさんの動機がそう言うことであってことで
Fiorinaさんの文章の根本は、ポエジーうんぬんよりも、
「継続の力(鍛錬)がなす普遍的な感覚」というものが書かれている。
それをFiorinaさんがこだわっている詩の話で語っているということではないでしょうか。
そう読むことが一番自然なような気がするのです。

TAKEさんの言葉は、至極まっとうなことが書かれていて
ぜんぜん話は変わるけれども、
共同幻想っていうのは、公私問題なんかを考えるときに、
それは確かに幻想なんだけど、意外と実はその幻想を生理的なものとして
ひとは生きてるんじゃないかって最近は考えていて
(国家は今や当たり前のように幻想だって言えるけど、その幻想がとても生理的なものなんだよね)
幻想自体よりも、その生理化されたものをどう超克していくのか、という問題意識は重要だと思う。
午睡さんが批判するポエジーのことなんて、まさにこの生理化された幻想のことで、
その生理化された幻想を受けてに、ニーチェやベルクソンじゃないけど
ひとつのものの取り組みから体現的ひらかれていく普遍的な身体感覚
っていう、幻想とは違う普遍的可能性について考えたりします。
そして、この話はFiorinaさんの話にも、午睡さんが批判の先に言いたかっただろうことにも近いと思う。
2人の向けている視線は、ちょっと午睡さんの批判でややこしくなったけど
同じところを向いているとぼくは思っているぜ(握手)

あ、なんかちょっと話がしりきれとんぼ。
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