05/04 03:22
佐々宝砂
>>166
>>168
m.qyiさんの文章、確かになにいってんだかわからないときがあるのですが、今回は嬉しくというかありがたく受け止めました。実はまだ動転してんのです、私。いとうさんの削除にほんとに動転してしまい、まだメールの返事もきちんとしたレスもできかねている状態です。
>いとうさん(読んでいらっしゃったら)
なにしろまだ動転してるので個人的メールが書けません。メール苦手なんです。どうかお許し下さい。
いきなり「反論」と書いたのがいけなかったのかもしれないと思い、私はなんで書き方がきついんだろうと相当反省してるんですが、反省しつつ、でもいとうさんに謝るのはへんだなあとも思うのです。私の考え方は、おそらくいとうさんと違います。違う人なのですから、考えが違って当然です。詩に対する考え方だって、共通する面もあれば、違う面がある。私は「詩を書くことは業だ」といういとうさんの意見に一応はうなずきます。「詩なんて書かないですむなら書かないほうがいい」という意見にも賛同します。
でも、どうしても一点だけ、一点だけといってもやや語弊があるかもしれませんが、一点だけ何が何でも譲れません。詩は必要なんです。詩人にとってではなく、読者にとってもとっても必要なんです。少なくとも、読者としての私はそう思います。
たとえば、医者。医者なんていなくてすむならいなくてもいいのです。百まで健康に生きて医者にかからずすむなら、それほどいいことはありません。でも私たちはたいてい病気をします。身体を病むこともあれば、心を病むこともあります。だから医者はやっぱり必要なんです。医者なんていないですむならそれほどいいことはない、としても。詩人と医者の必要性は、もちろん全く問題が違います。
でも、確かに、私はセーシュンの一時期にある種の(はっきり言えば語調のきつい血みどろですらあるような)詩を必要とし、そうした詩におぼれまくりました。寺山修司の短歌が必要だった時期もありました。谷川俊太郎のことばあそびうたが必要だった時期もありました。私は詩を読むことが本当に好きです。好きだからこそ詩を読み、詩を書き、「好きだ」と言わずにおれないからこそ、批評というものを書き始めました。
私はいとうさんの詩の批評を少しずつはじめるつもりでした。古い「カラフルメリーダイヤモンド」からはじめて「妻→RPG→つよし」「サイレント、サイレント、サイレント」への変化、それから近作の「かぜ・こえ・かくれな」でしめようとだいたいの流れを考えていました。おおまかには、私にも理解できたし大好きだと手放しで言うことのできた過去の「いとう詩作群」、そして私にはよくわからないものになりつつある現在の「いとう詩作群」、ということを書くつもりでした。批判的に書こうと思ったわけではありません。いとうさんは変化しつつあるがその変化を私は理解できないと書こうとしたのでした。読み手としての私の資質と書き手としてのいとうさんの資質がうまくかみ合っていないことは承知でした、でも違う者同士共存はできるだろうと思っておりました。
私としては、いとうさんをいきなりぶん殴ったつもりはないです。詩の批評をしてもいいかということは一応チャットではありましたが、お尋ねしました。いとうさんの詩作を理解するためにはいとうさんの詩評も読まねばならないと思い、いくつか読んだところ、どうしても譲れない一点「詩人なんかいないほうがいい」という言葉にひっかかってしまい、それを消化しない限り、いとうさんの詩の批評は書けないなあと思い、「続・風のうしろに風はない」を書いたのでした。
私の書き方やりかたが唐突に過ぎて気を悪くなさったのなら、その点では謝ります。しかし譲れない一点のみは、やはりどうしても譲れません。私は、私以外の詩人を必要としています。私は私と違うタイプの詩人を必要としています。いとうさんは明らかに私と違うタイプの詩人です。いとうさんのある種の詩は、読者である私を救ったことすら、あるのです。