05/02 10:55
m.qyi
「続・風のうしろに風はない」(佐々宝砂)かんそう
禅坊主には、坊主の、三文文士には、三文文士の、そしてちんぴらにはちんぴらの、そういう意地があるんだろう。それは動かせない線っていうことでもあろうし、そういうやつだから、坊主や、文士や、ちんぴらになったのだろう。そうじゃなかったら違うものになっていたに違いない、だから、ぼくはそういうものは、ほうっておく、どうでもいいんだ。
ところが、どうでもよくないものってのがある、愛とか、さ。これが実はどういうものかゼンゼンわからない。なのに、大切だってなんでいえるかといえば、どうでもイイヨって言わせない頑固な愛だからだろう。
こういう頑固ものは後先見ない、だからってそれは信念じゃあない。信念は努力している、そんなもんはぼくの思う愛とは余程遠い。そういう愛は得てして嫌われ者だけれど、ときどきふと後ろに立っていることがある。そして、小さな包みをくれる。なぜだかはしらないが。渡すほうも、渡されるほうも。
まあ、それにしたってさ、愛を渡されれば悪い気はしない、さ。幸せになる。瓢箪から駒がでるっていうが、愛ってのはそういうものだろう(駒を分析しても瓢箪はでてこない)。
まあ、何にしても転んでひざっ小僧をすりむいている時に起こしてもらっても、膝の痛みはかわらないだろうが、それでも、読んでよかった、起こしてもらえてよかった、道にへばって痛みがきえるまで泣くよりかよかった。
誠に申し訳ないけれど、この題で扱われた詩や評論などぼくは読んでいない怠け者なのだ。