2016 12/23 13:34
こひもともひこ
このあたりでも、当節の弁論家諸先生の真似をしたらよかろうと思うのですが、この連中ときたら、蛭よろしく二枚舌を使えるところを見せさえすれば、自分が神そのものになったように思い込んでおりまして、ラテン語の演説に時折ちょっとしたギリシア語をさしはさめば、たとえ場違いなところであっても、たいそうな手柄だと思っているのです。おまけに、異国のことばが手許にないとなると、黴の生えた古文書から四つ五つの昔のことばを掘り出してきて、それでもって読者の眼をくらますわけですが、その結果、それがわかる人は、ますます得意になって悦に入るし、わからぬ人はわからぬがゆえに、いっそう感に堪えぬ思いをするという具合です。
頭の上に石が落ちかかってきたら、それはもう掛け値なしの災難です。恥だの、不名誉だの、侮辱だの、悪口だのといったものは、それを感じる人間にだけ痛みをもたらすもので、感じない者にとっては不幸でもなんでもないのですから、世の人みんながあなたを野次ったとしても、あなた自身が自分に拍手喝采していれば、どうということはありません。そして、それができるようにしてあげているのは、この痴愚女神ただ一人なのですからね。
人はみな他人に対して異なった感情を抱くものですが、愚か者たちに対しては誰しも一様にこれを友として認め、追い求め、養ってやり、かわいがり、抱きしめてやり、困っているときには助けてやり、何をしようが、何を言おうが、お咎めなしということにしているのですよ。
この種の狂気が(よくあることですが)楽しい方向へ向かいますと、狂気に囚われている本人ばかりか、その有様を見てはいるが、同じ狂気に冒されているわけではない人たちをも、大いに楽しませてくれるものです。このたぐいの狂気は、世の人々が思っている以上に、はるかに広範囲に及んでいます。頭の狂った者同士が相手を笑い、互いに楽しませているというわけです。頭の狂い方のひどい奴が、さほどでもない奴をこっぴどく笑うというのも、しばしばご覧になっておいででしょう。
『痴愚神礼賛』エラスムス/沓掛良彦訳 (中央公庫)