2014 04/03 22:30
こひもともひこ
>>22 澤あづささんへ
個人的見解・印象として、前回と今回のHHMにて澤さんが取り上げた批評対象作品より、澤さんの偏執読解文(ヒヒョー文)のほうがおもしろいという意見に変わりはありません。
>「読解自体に否定される要素はないが、この読解が作品評価の基準として妥当か否かが疑問」
この文章に対しては若干修正して
>読解文自体はおもしろいのだが、対する作品の書き手が、そこまで考えて書いているのか否かが疑問
となります。
「この読解が作品評価の基準として妥当か否か」という判定を私はしません。どんなに稚拙な作品であったとしても、それを誰かが批評する価値はないとは思いません(時として言葉で書いてしまうことはありますが)。ではなぜ澤批評文はおもしろいのに、対象作品はおもしろくないと意見するのかと問われれば、この作品の書き手が、読み手に伝わるように書こうとした文章を読んだことがない、ということにつきます。
自分に可能な限りの技術を使い、他人に伝わるように文章を書いたことがあるのか?
どこまで説明しても捻くれて読もうとする読み手に対して、それでも自分の書いた文章を正確に伝わるように書いたことがあるのか?
これは、言葉数をかけなければ出来ないことです。
私が田中宏輔さんに全幅の信頼を置いているのは、彼は、ちょっとやそっとじゃない分量の説明・解説文を実際に書いている。詩集一冊を丸まる使った「The Wasteless Land.II」は詩論詩だし、ネット上で読める『理系の詩学』でも、彼の作品の理論を知ることができる。
詩の説明は「しない・したくない・できない」。この物言いのうちで、私が理解できるのは「できない」というものだけです。けれど「できない」のであれば、「詩の説明はできないけれども、詩は書きまくりますので、そこからなにかを拾ってください」という人しか信頼は置けない。「しない・したくない」は勝手にすればいい。けれども、詩の説明は「しない・したくない・できない」し、詩の量産もしませんと言う人をどう評価すべきなのかは、私にはわからない。