現代詩フォーラム活用術[8]
2014 08/17 09:27
深水遊脚

 ツイッターを始めて数ヶ月、ツイッターとこのサイトとで出会う言葉が違うことに段々気がついてきている。内面を深く掘り下げたり、経験を増やしたり、という部分はツイッターによって、詩を書かない人のそれらも目に見えるようになっている。詩を書く人の関心が言葉そのものに向かうとして、言葉をどう捉えるか。アートに似ている部分を探そうとしても、「美」をどのように捉えるかはそう簡単ではない。
 ツイッターで出来ることはツイッターでして行くのが私にとっては多分いい。ツイッターの速度でものを考えたくないとき、いま以外の時間と空間からでてきた言葉に接したいとき、カレンダー機能で適当な日付を指定していろいろ読む。

(追記)
 誰をフォローしてどうタイムラインを構成するかによっても違いますが、表現の刃を受ける側の心情というのもツイッターではよく見えてきます。不用意に傷つけてしまうのと、ある人々を傷つけてしまう可能性がわかっていてそれでも譲れない表現をするのと、だいぶ違うかもしれません。どちらにしても傷つく現場は変わりません。そうするしかないんだ、というこだわりのほうに私は肩入れしたくなります。安易に人を傷つける無自覚な表現については、稚拙という評価をすることも必要なのでしょう。読み手を人間扱いしない言葉は、多かれ少なかれ、暴力です。
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