バトル・リング[16]
2005 01/11 16:27
ポロリ
この際だから、少し補足しようと思う。
はっきりいって、私よりお詳しそうな方も多数いらっしゃるし、議論も少し古いものであるので、今更という感がないでもない。また、このような議論をしたからといって、「この場」がそれを求めてもいないということもある。
議論の出発点はこうだ。INができて、「公共圏」が見直されるようになった。H.L.A ハートなどはそのような公演をしているという。つまり、民主的な議論ができるのではないか?という話である。
「法の概念」
ハーバート・ハート (著), 矢崎 光圀 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622017431/qid=1105427547/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-1962536-8453113
しかし、INには阻害要因が多い。たとえば、蛸壺化するルールや、それに伴う排斥、あるいは文字媒体という理由からのフレームアップおよびハウリングやメタ自己と自己統御能力の不全問題、その他環境マネージメント問題である。
「ネットワーク社会の深層構造―「薄口」の人間関係へ 中公新書」
江下 雅之 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4121015169/contents/ref=cm_toc_more/249-1962536-8453113
なので、そのような阻害要因を見るたびに、私はげんなりするわけだ。
特に、自意識過多で自己愛を強調し、感情の保全のみを目的として行動する人を私は醜いのではないかと思う。この形式のように、ぬるい矮小な目的のみの行動は、時間すなわち生命にとって無駄である。そのような生命を削る行為は悪である。そのように私は認識している。
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