2006 05/07 06:37
佐々宝砂
廃ポツスレの下の投稿から続く。
http://po-m.com/forum/thres.php?did=57846&did2=736
もはや「ポツリと呟く」ではなくなりそうなので引っ越してみた。
悲しさ、悲しみと呼ばれる一見ネガティヴな感情(以下、用語を統一してこの感情を悲哀と表記)が、なぜ存在するか。なんにもならないどころか悪いもののように思える痛みという機能が、実は人間にとって必要不可欠な機能だということは、すでに証明されている(ええっ嘘ぉと思う人は上記廃ポツスレ投稿を参照するように)。痛みとは、身体の故障・損壊を防ぐためのサイレン、緊急ブザーであり、バカなことをしでかさないための行動制御装置でもある。人間が痛みの必要性を知ることができたのは、おそらく、痛みのメカニズムが解明されたからではなく、生まれながらに痛みを感じない人と痛みを失った人が存在したからだろう。何かを失ったとき、人ははじめてその何かの必要性を知る。
悲哀は、何かを失ったときに生まれやすい。近親・配偶者・友人などの喪失(離別または死)は、即、悲哀に通じる。フロイトは、そのような悲哀を「喪の仕事」grief workと呼んだ(でも私、心理学、特にフロイトさんユングさん心理学って科学に思えない・・・なんてことはさておき)。悲哀は、生理的痛みに似てつらい経験だ。生活に支障をきたすほど極端な悲哀や慢性的な悲哀は、うつ病などの精神疾患として治療できるものだし、治療すべきだろう。だが、生活に問題ない悲哀は、無理に消そうとしなくてもよいのではないか。生理的痛みがつらいものであるとしても、痛みそれ自体は健康な反応であるように、悲哀それ自体もまた、健康な反応なのではないか。
悲哀の経験は、人の行動を制御する。もっとかんたんな(?)言葉で言うと、ひとは、悲しむたびに、「こういうことをすると悲しくなるんだな」と学ぶ、そして悲しむのはつらい、だから、悲哀につながりそうな行動を避けるようになる。おそらく、悲哀は、痛みが人間の行動制御装置であるのと同様に、人間の行動制御装置として働いている。
(新聞きたのでここまで)