2006 02/21 00:44
田代深子
Michirow Skohさんの考え方は、私に言わせればとてもプリミティブで、それこそ多くの宗教の根底にあるもののような気がします。それは「人間が生きていていい理由」をせっせと作り出そうとするための苦吟そのものじゃあないか、とも感じます。とても優しいけれど、子どものような傲慢さではないのかと。
わたしが前提としている考えは、人間の行為とか認識とかには絶対に限界がつきまとっている、ということです。わたしたちは、自分が生きる状況(それは先進国の安定した生活状況でインターネットもできる環境で…なんていう細部も含めて)の中で、ただ生きていくことしかできない。ひたすら生きる、という表現は、せっせと汗水たらして云々というのでなく、「生きることしかできない」という意味だったんですが、誤解を呼んだようですね。生きる、ということの意義や意味を、ただ生きる、そのことより他に転嫁させるのを傲慢だと感じます。ましてや、生ひとつひとつを引き比べるなんて、それはナンセンスです。人間以外のどんな生物が、自分の生命と他の生物の生命は等価だ、などという〈思想〉を持つでしょうか。結局はそれも、人間の人間に対する倫理観を、無理矢理に押しつけているだけのような気がします。
わたしが言ってしまいたいのは、人間なんかいようがいまいが、過剰な消費と二酸化炭素放出によって滅び去ろうが、ちゃんと新しい〈人間のいない世界〉が生じるだけだ、ということ。だから人間の生きるご立派な理由やら、潔く死ぬ理由やらをこしらえあげるために、他の生物や環境をもちだすのは、甚だしい錯誤だろう、ということを思います。
「人間のみは生き続けなければ」ではなくて、人間が生きていく、そのためにはできるだけ自身をとりまく他を損ねないようにするしかない。そしてそれはとても難しい。それでも、われわれは他の生との関係の中でひたすらに生きるよりないのだから、生かされてきたのだから、なんとかがんばるしかない。
まぁこんなところなのですよ。わかるかどうか、わからんけど。
#下げません。