雑談スレッド6軒目[546]
2006 02/20 10:35
田代深子

 人間は、主観によって〈悪〉であると思うことでも、自ら為してしまうことがある。そして他人から見れば、そして法律に照らしても、それは〈悪〉でもなんでもないことがある。逆に〈善〉であると思ってしたことが、そして法律にも認められていることでも、他人によって〈悪〉であると見なされることがある。まぁほかにもケースはいろいろ。法律は、社会(人間の群れ)の運営に必要なものとしてあり、最大公約数的に他人同士のトラブルを調停するために、ただそう納得し合うために、必死こいて作られてきたもので、それでも機能不全を起こしてケナされる道具…ちょっと可哀想だ。
 だいたい〈善〉〈悪〉を、〈生きる〉ということの原因や目的として置くことのほうが無理な話だしね。原因や目的が大事だというのは、なんだかイデオロギーとかの臭いがする。人間はイデオロギーとかのために生きると、大抵つまんないことになるものだ。
 〈生きる〉ということは、ただ、ひたすら、生きるということにすぎない。まさにそれはあらゆる生物の〈生きる〉ということと、何ら変わりはなく、わたしなどはそれだけが大事じゃねーかとすら思う。人間が〈生きる〉ということは、べつに食ったり寝たり排泄したりということだけじゃなく、社会性動物として他人と関わるということが必然的に含まれている。
 それで〈善〉〈悪〉という事柄も考えられるようになるんだろうけど、他人に対して〈善〉か〈悪〉かというのをとりあえず裁量するのが法律で、自身の理念に対して〈善〉か〈悪〉かというのは宗教や哲学によって代表される思想体系群てことに、まぁ役割分担されているらしい。いずれにしろ〈善〉〈悪〉は、〈生きる〉ことの中に包括されているもので、〈善〉〈悪〉が〈生きる〉ことを決定するということはありえない。
 日本の法律が死刑制度を抱え、故意の複数殺人者を死刑に処すのは、そいつが〈悪〉だからではなくて、それぞれが〈生きる〉ことを前提とした社会の中で抱えきれない〈混乱〉そのものであるからなのだと思う。「矯正不可能」と評価され、そして多分に復讐による社会への慰撫をもたらす。なぜ人々は殺人者に対する復讐を法律に求めるか。それぞれが〈生きる〉という大前提を犯し、さらに脅かすから、ということなのだろうが、わたしには結論めいたことが言えない。「なぜ殺してはならないのか」という問いに、答えを持ちえない。さらに、殺す人間と殺される人間の、どちらが〈善〉でどちらが〈悪〉か、などという言説は、まさに〈善〉〈悪〉を目的化する行為のように感じる。特に戦争の。
 生きていていいのか、という問いを発することができるのは、なかなか有り難いことなのではないだろうか。結論は結局、自分で出すよりほかになく、自分よりほかにその結論に従う者もない。現在の自分に生きる資格を求めてそれが見つからないのなら、資格に見あうように行為する努力をなすか、その場で断罪し自分に自分の規定する〈死〉を与えるか。なかなかのことだ。場合によっては、自分の考え方を変えねばなるまい。〈生きる〉ことには、そういう揺らぎが含まれるのだ。
 法律とは別のところで、他人は他人の〈生きる〉仕方に関わり、許しも憎みもする。そのせいで実際に生死が左右されたりもする。わたしなどは、自分の主観的な〈善〉〈悪〉よりも、そういった他人の許しや憎しみに従いたがる傾向が強く、それはそれで弊害がある。だが他人の許しや憎しみも、自分のそれと同様〈善〉〈悪〉とは違うものだとは知っている。それでいいと思っている。他人に無碍に苦しめられた、と感じるときはせめて、なけなしの自分の〈善〉〈悪〉の観念を動員し、自分を慰めるとか、相手と戦うとかするしかないが、その〈善〉にしても〈悪〉にしても、やはり他人とのすりあわせによってしかあり得ない。自他の〈善〉〈悪〉に裁かれ殺しあうよりは、憎しみによって殺しあうほうが納得いく。…まぁまず、殺されるほど憎まれたくはないし、憎まれるようなことを他人にしたくない、というのが、一応のわたしの倫理ということになるだろう。それでも小さな憎しみのしこりをいくつか、人間は抱えてしまうものなのだが。
 Michirow Skohさんの文を読んでいて、そのようなことを考えた。《「自分を肯定し続けなくてもいい」抜け道、あるいはもっと上位の真をみつけるということ》は、根元を他者に依託する倫理になっていきそうだ。わたしは難しくて読み切れないでいるのだが、レヴィナスの著書を読んでみるのもいいのではないかと。
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