2006 01/18 17:10
佐々宝砂
いわゆる人間的なロマンティスト。わたしはいわゆる人間的なロマンティストが好きですけど苦手です。無垢かもしれないやさしいかもしれないひとが、好きだけど苦手です。人の姿をたいせつにおもうひとのことが、好きだけど苦手です。人の服装や人のことばに四季のうつろいのようなものをみるひとのことをうらやましく思いますが、わたしはそういうことも、そういうことが得意なひとのことも、苦手です。わたしは一枚一枚の葉っぱをアルコールにつけて葉脈標本にして顕微鏡で眺めるようなことがとてもとてもほんとうに大好きで、そういうことなら苦手ではありません。またわたしは、空の星の日々の移り変わりを眺めることも大好きです。不変のようにみえる星座が、繰り返しのようにみえる四季のうつろいが、実は雄大な時のながれのなかかわってゆくのだということを、わたしは知っています。実際に見てはいないけれど、わたしはわたしの想像のなかで変形してゆく星座を眺めることができます。そういうことができるのは、学んだからです。
わたしという現象は、あちこちに情報をバラバラと置いてゆきます。わたしの考えはいろいろな枝葉、これから芽吹こうとするものや、朽ちて落ちていこうとするものなど、刻々と育ち、刻々と朽ちてゆく、諸々の事柄から成り立っています。しかし、わたしという現象を観察するものは、わたしがそのへんに置いていったバラバラの情報からわたしという現象を判断する他ありません。わたしもまた、いろんな人が置いていったバラバラの情報から個々人のひととなりを判断します。インターネットでない現実の世界においてもそれはおなじです。ただ現実では、情報量がとても多くなります。そのひとの発言、行動、匂い、顔色、髪型、服装、声、みな情報です。わたしは自分の五官で得た情報を手がかりにして、他人というものを知ります。もちろんほんとうに「知った」わけではなくて「推測した」だけなんだけど、わたしにとって「他人を知る」とはそういうことです。他人というものは「情報の集積」などではないのだけど、そしてわたしはそれを知っているのだけど、でも、わたしは他人を「情報の集積」として認識することしかできません。たとえその他人がわたし自身の恋人であっても話はおなじです。わたしもまた、他人にとって「情報の集積」なのだろうなとおもったりもしますが、ほんとのところ、他人の考えや感じ方は絶対にわかるものではありません。わかるとおもってもたぶん幻想か勘違いです(うつくしい幻想ではあります)。
わたしは他人の考えや感じ方を想像・推理・学習することならできます。こういうことを言ったら相手が気を悪くするよな、と考えたりすることもできます。葉脈標本をみるより人の姿をみることのほうが大切かもな、とわたしではない人の考えを無理矢理飲み込んでみることもできます。だけどそういうことを続けているとわたしはだんだん萎縮して、わたしらしい考え方や感じ方を忘れそうになります。そんなときわたしは、わたしを取り戻すために自分がかつてバラバラとまき散らした情報を手当たり次第にあつめます。そんなとき、わたしにとってすらわたしは「情報の集積」です。わたしもまた他人なのです。
なにを書いてるのかわたしにもわからなくなりました。あとで読み返したら、そのときにはわかるかもしれません。ともあれ、わたしはわたしにとってすら「情報の集積」です。ほんとうはそうではないのに。