古書肆 新月堂[3]
2004 11/28 00:20
佐々宝砂

「和歌(うた)でない歌」より (中島敦)


 憐れみ讃ふるの歌

ぬばたまの宇宙の闇に一ところ明るきものあり人類の文化

玄々たる太沖(たいちゅう)の中に一ところ温かきものありこの地球(ほし)の上に

おしなべて暗昧(くら)きが中に燦然と人類の叡智光るたふとし

この地球(ほし)の人類(ひと)の文化の明るさよ背後(そがひ)の闇に浮出て美し

たとふれば鑛脈にひそむ琅玕(ろうかん)か愚昧の中に叡智光れる

幾萬年人(ひと)生(あ)れ継ぎて築きてしバベルの塔の崩れむ日はも

人間の夢も愛情(なさけ)も亡びなむこの地球(ほし)の運命(さだめ)かなしと思ふ

學問や藝術(たくみ)や叡智(ちゑ)や戀・愛情(なさけ)この美しきもの亡びむあはれ

いつか來む滅亡(ほろび)知れれば人間(ひと)の生命いや美しく生きむとするか

みづからの運命(さだめ)知りつゝなほ高く上らむとする人間(ひと)よ切なし

弱き蘆弱きがまゝに美しく伸びんとするを見れば切なしや

人類の滅亡(ほろび)の前に燦然と懼れはせねど哀しかりけり

しかすがになほ我はこの生を愛す喘息の夜の苦しかりとも

あるがまゝ醜きがまゝに人生を愛せむと思ふ他に途なし

我は知るゲエテ・プラトン惡しき世に美しき生命生きにけらずや

屹として霜柱踏みて思ふこと電光影裡如何に生きむぞ


***


 石とならまほしき夜の歌 八首
 
石となれ石は怖れも苦しみも憤(いか)りもなけむはや石となれ

我はもや石とならむず石となりて冷たき海を沈み行かばや

氷雨降り狐火燃えむ冬の夜にわれ石となる黒き小石に

眼瞑(と)づれば氷の上を風が吹く我は石となりて轉びて行くを

腐れたる魚(うを)のまなこは光なし石となる日を待ちて我がゐる

たまきはるいのち寂しく見つめけり冷たき星の上にわれはゐる

あな暗や冷たき風がゆるく吹く我は堕ち行くも隕石のごと

なめくぢか蛭のたぐひかぬばたまの夜の闇處(くらど)にうごめき哂(わら)ふ


***


 夢

何者か我に命じぬ割り切れぬ數を無限に割りつゞけよと

無限なる循環小數いでてきぬ割れども盡きず恐ろしきまで

無限なる空間を墮ちて行きにけり割り切れぬ數の呪を負ひて

我が聲に驚き覺めぬ冬の夜のネルの寐衣(ねまき)に汗のつめたさ

無限てふことの恐(かし)こさ夢さめてなほ暫(しま)らくを心慄へゐる

この夢は幼き時ゆいくたびかうなされし夢恐ろしき夢

今思(も)へば夢の中にてこの夢を馴染の夢と知れりし如し

ニイチェもかゝる夢見て思ひ得しかつツアラツストラが永劫囘歸

  *  *

むかしわれ翅をもぎける蟋蟀が夢に來りぬ人の言葉(くち)ききて

  *  *

何故(なにゆゑ)か生埋にされ叫べども喚けど呼べど人は來らず

叫べども人は來らず暗闇に足の方(かた)より腐り行く夢


  夢さめて再び寝られぬ時よめる歌

何處(どこ)やらに魚族奴等(いろくづめら)が涙する燻製にほふ夜半は乾きて



                 (筑摩書房版「中島敦全集」2巻より)
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