11/08 14:13
佐々宝砂
エラソということは、はい、脇に置きます。それはいいとします。私も気をつけます。
で。私は自分の好みに基づいて批評を書いてきたつもりです(私の批評を読めばそれはおわかりになりましょう)。繰り返しになりますが、私は詩に重く狂おしい「実在の人間」を求めませんし、とりたてて「深さ」も求めません。これは私の好みであり、傾向であり、主義です。しかし私は曖昧なクラゲみたいな人間ですから(卑下するのではなく私は理由あって誇り高くクラゲです)、「実在の人間」を重く描いた「深い」詩のことを好きだなあと思うこともあります。オブローモフと現代日本については、まさしくTAKEさんのおっしゃる通りでしょう、その点は否定いたしません。文学的ナショナリズムに関するご意見にも頷きます。
村上春樹の言葉に出る『カラマーゾフの兄弟』という作品名は、固有のひとつの作品を指すというよりは、これまで書かれてきた過去の文学作品すべてを指すと考えてよいのではないでしょうか。過去の作品には、その時点での「生きている人間」が描かれています。私はそういった作品に感動を覚えます。また、それら過去の作品群には大変重要な問題も提起されており、その問題ひとつひとつはほとんどが未解決なままで、クリアされてはいないと思います。
にも関わらず、現代詩は、かつて書かれたことのない新たな問題を提起しようとします。いまここに生きる私たち固有の問題、これまでの文学作品が語らなかった問題、それは、いかに軽く、あるいは浅く見えようとも、実在の人間を描いていないように見えようとも、真実、私たちの問題です。私はときおり考えます、もしかしたら、いま私たちの抱える問題は、軽く、あるいは浅くみえる書き方でなければ書き得ないのではないか。現代における「実在の人間」を描くには、確固たる信念に基づいて描くのではなく、ふわふわしたいい加減なクラゲのように曖昧な漠然とした何かに基づくのでなければ書けないのではないか。かくして私は誇り高くクラゲなのですが、そのことと、たもつさんの詩とに、直接の関連はありません。おわかりでしょうけど、念のため。