11/07 16:11
たもつ
TAKEさん、こんにちは。たもつです。
名指しされたからには何か書かなければいけないんだろうなあ、と思いましてこうし
てレスをしています。
先日TAKEさんが投稿された「透明人間は誰なのか」という批評を読んで、ああ、
僕の「透明人間と」を肯定している評ではないな、というのは何となく感じていまし
たが、「たもつ氏の詩は、私にとっては、浜崎あゆみの如き詩に思える。ただの流行
り歌の如きものであって、そういう詩を良しとしてはいけない」というところまでは
読みきれずに、ポイントはいれたものの要領を得ないコメントになってしまったこと
をお詫びします。
一言申し上げれば、詩、批評に限らず、表現の基本は「伝える」ことだと思ってます。
その部分がないと表現というのはとても虚しいです。「伝える」ためにはどうしたら
良いのか。そこを考えるのが表現するものの使命ではないでしょうか。
さて本題ですが件の「たもつ氏の詩は、私にとっては、浜崎あゆみの如き詩に思える。
ただの流行り歌の如きものであって、そういう詩を良しとしてはいけない」というこ
とについては僕が申し上げることはありません。僕は自分の信じた道を自分の信じた
方法で歩いていくだけです。貴重なご意見ありがとうございました。
寧ろひっかかるのは「たもつ氏の詩は、いずれは本流となるべきものであるとか」の
部分です。「本流」って何?という素朴な疑問があります。
もし「本流」というものがあるのなら、「いずれは本流となる」というくらいだから、
今現在「本流」である人たちがいるということだと思うのですが、このあたりTAK
Eさんはどのようなご認識をお持ちなのかお聞きしたいです。
先に自分の見解を示すならば、WEBに限った場合、皆に尊敬され、愛されている書
き手さん達がいることは確かです(このフォーラムにもいらっしゃいます)。だから
と言って、そういう方たちが「本流」であると、僕は思いません。
そういう方たちも、時には互いに影響しあいながら、時には影響は避けながら独自の
スタイルで独自の方法で活動されているように見受けられます。
「本流」という言葉に「自分は所詮本流じゃない」というヒガミが感じられて、嫌な
気持ちになります。
もう一つ。自分の理想があるのなら、その理想のために、きちんと人を育ててくださ
い。
ここでグチグチ言ってても何も成し得ることはできないと思ってます。