01/03 09:54
佐々宝砂
>いとうさん
>また、「何故他者の印象を優先するのか」という問いに対しさらに内省を進めると、
>そこには、「自分が傷つきたくないから」という心情の裏返しがあるようにも感じます。
ええ、私もいろいろ考えて、そのあたりにポイントがあるんだろうと結論を出しました。「傷つきたくない」というのがやばいのではないか、と。私は、いとうさんと同様に、他人に配慮したほうがいいと思ってます。私もやっぱり傷つきたくないですから。でも胸に手ぇあてて考えてみると、私が傷つくのは、相手の言う内容が間違っている場合や、相手がひどいスタイルをとっている場合とは、限りません。ごく丁寧なスタイルで、非常に正しいことを言われたって、傷つくときは傷つくんです。時によっては、相手の言うことが正しければ正しいほど腹が立つことだってあります。
古い話ですが、フロイドが、イェンゼンの小説『グラディヴァ』を精神分析の手法で読み解いた例があります(『文学と精神分析』、うちにあるのは角川文庫版、解説は安田一郎)。フロイドは、イェンゼンの小説から作者自身のトラウマめいたものを推理し、その一部は確かに正しかったのだと文庫解説にあります。フロイドの文章が文学批評と言えるものかどうか私は疑問に思いますが、ある意味おもしろい批評だし、内容がものすごく間違っているわけではない(むしろ一部はこのうえなく正しい)し、スタイルはもちろんかなり丁寧です。でも、イェンゼンはフロイドの文章を読んで腹が立ったことでしょう。作者自身が知りたくない部分を、フロイドが暴いているからです。
いま私は「暴く」という言葉を使い、そしてふっと気づきました。私がほしい「暴論」は、何かを強引に引きはがして暴いてしまうという意味での「暴論」です。そういう意味での「暴論」は、おそらく、私が近づきたいと思っている「批評」への一歩になるはずです。