2011 05/23 10:01
……とある蛙
>>24
まず、ブライ自体の詩が持っている切り口というのが、おそらくトウモロコシ畑の中の柳の木に惹かれて同化され落ち着きつつある「僕」の感覚、キジを撃つという目的を忘れて無防備になって行く「僕」という存在を掘り出してゆくというところにあると思います。この切り口がないと奇妙な行動に関する技法的な効果は感じられなくなるのではないでしょうか。
>草むらで、すわりこんで
>うんうんうなっている
何かに苦しみ呻吟している感じがして
>かかとをあげちからをこめて
>わきばらをかかえあげて
>やなぎの木の下で
>こおどりするすがた
この辺りも身体全体に力の入ったイメージがあり、残りの部分がブライの詩と同様であれば、少し書きたいことが分裂してしまったイメージが出来てしまいます。
ブライと全く違った切り口で柳の木の下の僕を書いているのであれば別ですが
ブライ流とは全然違いますが、視点ということを意識して書いたという意味では
以前私が書いた「赤い月」の中の「2」らくだの部分を参考までにアップしておきます。随分前に書いたのですが、それほど評価が高くないものです。
2
奇妙な絵だった。
空には赤い月
青いグラディエーションの夜空に星はない。
地平線は白く
大きな駱駝が1頭
太い大きな足は象のようだ。
蹄はなく
指が三本
駱駝の顔は大きい。
近づくと遠近感が微妙に狂ってくる。
顔のでかい駱駝は
ゆっくり歩いているようでありながら
実は人を食らっている。
駱駝の暗い情動と視点が
夜空のグラディエーションに
朱色の帯を入れている。
濁った朱色の帯
砂漠の端に生き残った子供が
胡乱な眼で
夜空を見上げている。
僕はこの絵を見ているうちに
子供と一緒に夜空を見上げていた。
そして、
二人して赤い月に吸い込まれていった。
絵を見ていたはずの僕は
今、裏側から子供と一緒に
自分の部屋を眺めている。
各章ごとに視点の揺れと時間軸の揺れを微妙に書いたつもりです(笑)。そのうち書き直す可能性がありますが。