05/23 08:17
……とある蛙
>>24
あとでまた考えます。
まだ確定的な考えになっていないのでとりあえずアップしときます。
ロバートブライは、詩に実証的な文章に使用される文章語※による表現はなじまないとし、より無意識を言葉にする際には口語の使用が不可欠だとしています。
この場合の口語を日本語における口語と考えると理解でき無くなります。
※0次のように考えると分かり易いと思います。
つまり、日本において 口語(現代語)は実証的実務的な文章に利用される文章語(文語とは違います)と心証あるいは内的状態の主観的かつ直観的に説明する言葉としての口語とに区別できます。
※1文章語は出来る限りの一義性を求められます。
※2文章語とは書き言葉です。
ー近代になって発達して来た第二言語
※3本質的に実証的な言葉で「自然主義者、学者、法律家、自然科学者など」によって開拓され、「科学的、社会学的な文章又は政府や報道機関などが用いる散文などがこの言葉で書かれています。
※4ブライは英米語の分析として文章語という言葉を設定していますが、日本語も同じような傾向にあります。
現代詩は現代死語(日常会話で使われないといった意味での)???とも呼ぶべき一連の文章語を無意識のうちに屈指しているようです。文章語は物事の外面を書くのには適していますが、その性格から内面を書くには適さない事は自明のことです。
結局、文章語で内面を書こうとするから無理なレトリックというか造語にすらならない暗喩に彩られるのではないとも考えられます。詩人以外興味を示さないような言い回しのオンパレード。そのような詩は詩ではなく、独白以下であるとも考えられます。
ブライは口語を使って平易な言葉で無意識下で感ずることのできる内面の状態状況を、意識的表現するのが詩の一つの役割だと考えるのです。
したがって、無意識下で感じたことを意識化して詩表現にしようと思えば、当然内面の切り口としてのイメージを言葉で生み出さざるを得ません。
結局、狭義??の技法以前の問題として切り口が非常に重要になると思われます。
※00ありゃりゃ、むずかしいなぁ。程度の問題もあります。また、ちょっと言い過ぎに部分もあります。一種の仮説みたいな物ですね。