生贄合評スレ[98]
2004 12/12 03:10
黒川排除 (oldsoup)

 まず詩に英語を用いることに付いて触れたい。これは何もこの詩のことのみを指してるのでないから、読み飛ばしてもらってもいい。わたしは詩に英語を用いることはない。英語の有用性について疑っているからだ。詩は易しくあるべき、とは思ってはいないが、記号的な意味で使う以外はテンポを崩すものだと思う。スルリと読めないからだ。これは一概にはいえないかも知れない、英語の熟達者には何の苦労もないことだからだ。それがカタカナであったなら、わたしもつまずくことはないだろう。また記号であったなら、雰囲気で読めるだろう。けれど雰囲気ですら読めないもので、目にとまってしまうと、その時点で緊張が解けてしまう場合がある。これは今書くべきではなかったかもしれないけれど今思いついたので今書く。
 それでは本題にかかりたい。わたしは一読してまずこの作品にけだるさを感じた。それは今あげた英語に対するものでないから、これを明らかにしていこうと思う。
 この詩には好きという文字が多く使われていて、最初の好きという表現は、そのままの意味だと感じた。と書くと変だが、まさに好きという意味での好きで、何のとっかかりもない。問題なのはその次からの「好き」だ。おそらく前述の好き、をスプリングボードにして発射されたこの「好き」の集合には妙なところがある。ダメ人間の雰囲気、わざわざ前もって役に立たないと表現された教科書、政治や宗教に興味を持てない国、どっかの首相のたわごと、最後に、鏡に映らないほんとうの美醜と物事の道理。それは一般には好きだ、と言わないようなものである。また「役に立たない」「興味を持てない」など、教科書や国などをご丁寧に一段レベルを下げたものとして扱っている。それらはすべて軽視すべきものだ。つまりぼく、と表現されている彼は軽視すべきものを好きだと言っているのだ。
 ここでひとつ問題が生じるように思う。同じ連で「けっこう真剣に生きてるきみが好きだ」と言っている彼が、その後で「詩よりもばかなきみが好きだ」と言っている。彼はきみを軽視しているのかと思う。しかしこれは軽視すべき対象が違うのだ。「けっこう真剣に生きてる」という言葉がそれを示している。この連でわざわざこの表現だけを「普通は愛すべきもの」に置き換えることによって際立たせているのだ。つまり軽視すべきは真剣に生きる態度であり、ばかな詩なのである。この嫌悪は「現代詩に幻想を抱かないですむ」と表現されたことにも現れているし、「ぼくらなんて言うけどほかの奴はひとりも見つからない」という形で「きみ」は保護されてすらいる。きみは好きだ、という表現をそのまま言えずに隠しているのである。ここで最初に立ち返ってみると、世界人口のすべては、灰皿の上で踊っている、と表現されている。そのあとでほかの奴の存在は否定、というほどではなく「見つからない」としているのだから眼中にないと考えるのがいい。最初から彼は「きみ」しか見ていないのだ。
 そこで結びの連である。ここには「きみの好きなレコード屋には/フィッシュマンズも置いてないのに」とある。きみの好きなもの、とは彼にとってはどのように作用するのか。好き、とは何度も述べたが、彼の軽視行動に他ならない。「きみの好きな……」とはもちろん彼の言葉だ。彼が「きみ」に半ば強引に押し付けている事情だ。ところで好き、とは彼の定義であって「きみ」の定義ではない。「きみ」が好きなものは純粋にただ好きなものだ。「きみ」には彼より好きなものがある。それこそを彼は彼女に軽視して欲しいのだ。そのための強引な、軽視して欲しいとという願いの押し付け、それはまさしく嫉妬ではないか。彼は好きという情念以上に嫉妬心を隠そうとやっきなのだ。嫉妬を感じている以上彼の好意は、演じている彼がよく感じている通り一方通行であろう。だが剥き出しの嫉妬は醜い。彼は取り繕うことによってなんとか、「きみ」に真摯な態度を見せつけようとしているのではないか、とわたしは感じた。その取り繕いがまさにけだるかったのである。最後の一行、これは無論嫉妬による見せつけ、である。
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