2004 11/01 22:54
斗宿
「けだもの」
いとうさんは何ゆえにこの作品を「未詩・独白」と分類なさったのであろうか?
この作品が独白であるとも、詩に至らぬとも私には思えない。
私見だが、いとうさんがこの作品を「未詩・独白」としたこと
それ自体がメッセージ性をもっているのではないかと推測する。
すなわち、ありとあらゆる先入観やそれに類するものを持ち込まずに
この作品に向き合って欲しいということではないかと考えているのだ。
感想や批評がつけば、それを読んだ人間の中には
この作品に対するある種の先入観が多かれ少なかれ生まれるであろう。
それを防ぐために、いとうさんはこの作品を「未詩・独白」としたのではないだろうか?
この作品はありとあらゆる意味で、場面で「答え」に相応するものを
導き出されること、「答え」を限定されることを拒絶しているように見える。
ここでいう「答え」とは、この作品における「けだもの」という言葉の意味であるとか、
けだものは醜いのか美しいのか、などといったことである。
さらに、この作品からは感情や主観論といったものも排斥されようとしている。
それは作品の随所に見られる。
2連で示される、泣きも吠えもしない、感情を示さないけだもの。
3連で示されるけだものの目は、誰も見たことがないと言われながらも
澄んでいる、いや濁り腐っている、と評されどれが本当かは判らない。
主観論の否定は第5連、けだものの爪が尖っている理由を語る際に行われている。
守るためについているのか、殺すためについているのか?
どちらの説をとっても、それは所詮主観に過ぎない。
>知らないのは
>けだものであること
>そして
>けだものと呼ばれていること
>そして
>けだものという言葉があること
名は存在を示す。
けだものが「けだもの」と呼ばれていることを知らないこと
「けだもの」という言葉を知らないことは
他者に自己の存在が認識されていないけだものの悲哀とも取ることができるし、
自己に対して他者が存在していることを認識しないけだものの傲慢とも取れるであろう。
このように、全ての問いは明確な答えを得ることなく、永遠に問い続けられるのだ。
そしてこの、「永遠に問い続け、見つめ続け、探求し続ける」ことこそ
作者であるいとうさんが読者に求めていることなのではないかと考えるのである。
最後に、いとうさんがこの作品を敢えて合評の場に出した理由についてだが
「答え」のない、「答え」を限定することの出来ないこの作品に
各人がみた様々な「答え」を敢えて公開することによって
この作品が「答え」の定まらない作品であるということを知って欲しかったのではないか?
などと、愚考してみたりするのである。