生贄合評スレ[69]
2004 11/16 12:03
いとう

浜崎あゆみが、以前、「私は消費されてもいい」と述べていたことがあって、
なんか、見直したことがある。
意思を以って消費の恐怖へ入っていく姿には、勇壮と悲壮が同居している。
もちろん、そこに意思があるならば。(そういう意味では田代さんと同意見)


解釈の不要な詩、あるいは解釈を提示しても意味がない詩があって、
これは、その類のものだと思われる。
作者としてはたぶん「解釈は人それぞれでいい。空気を読んで(感じて)欲しい」といった思いになるのか。
「黄金」「髪を長くした人」など隠喩はある程度機能しているけれど、それは本題/主題からは外れると思う。
(逆に言えば、これらの喩の立つ場所はあくまでも作者の中にあるため、
それを提示することがこの作品の本題ならば、独り善がりな詩と言わざるを得ない)


詩の空気はどこに立ち現れるか。
敢えて乱暴にまとめるなら、
それは読者に提示されるイメージ(の交錯、符号、流れ)にある。
(この詩の場合、前述の喩はそれを補助するものとして機能する)
ではそのイメージはどのように形成されるのか。
これも敢えて乱暴にまとめるなら、
イメージ形成の鍵は、言葉の選び方と置き方にある。
言葉が起律(←造語)しているか。詩の空気はそこに現れる。


ここで余談:
詩の書き方は、もちろん、それだけではないとも思ってます。
書き方はいろいろあって、それぞれにメソッドがあると思う。


本題に戻って、「とんぼ」で使用されている語句はどうだろう。
印象としては、やはり、弱い。
田代さんの言葉を借りるなら「筆致の力弱さ」が目立つ。
個人的には、詩には必ずしも筆致の力強さが必要だとは思っていないが、
作者の意識(という言い方は語弊を含むけれど)が
「空気を読んで(感じて)欲しい」という側面にあるとすれば、
その空気を形成するだけの起律性、
あるいは、その空気をより精緻に、
作者の持つ感覚とできるだけ合致させようとする努力(とその結果)が必要だと思う。
その目的/目標を含んでこの詩が在るのなら、それは単なる力不足となるだろうし、
それを含まず、別の思考によって在るのなら、
それは、作品への解釈の幅が広がる方向ではなく、
作品の印象がぼやける方向へ進んでいるようで、
思考スタンスの再確認が必要となるかもしれない。

もっと強く、シャープに。言葉に緊張感を。
「とんぼ」に足りない、あるいは必要な要素は、そこにあると思う。
(作品のイメージに緊張感を持たせるべきという意味ではなく)
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